小林多喜二『党生活者』感想文

あらすじ

共産党の党員である佐々木はプロレタリアート解放という大義名分のために、須山と伊藤などの仲間とともに工場で党活動を行っている。当時は共産党の活動が危険視され、警察に見つかれば牢屋で拷問が待っているという厳しい時代だった。労働者は工場で長時間にわたって低賃金で働かされ、そして資本家の都合でいつでも首にできるという弱い立場に置かれていた。労働者の団結を試みようとしても、大っぴらにやると警察に見つかるし、隠れてやれば今度は体制派の活動家に邪魔をされる。だが、工場で大量解雇が行われる直前に、三人はビラ撒きに成功し、一時的に労働者の団結意識と反抗意識を高揚させることができた。しかし、結局それも工場の老獪なやり口で不発に終わり、ストライキを起こさせるには至らなかった。

感想

活動家がいかにして労働者の意識を搾取構造に向けさせ、団結に持っていこうとするかについての描写が面白かった。自分たちが正しいことしているからといって人は賛同してくれるわけではなく、多くの人の心理をうまく掬うことの難しさを感じた。理想主義者で現実の人間の扇動が苦手な佐々木ら党員と、現場を知り尽くしたずる賢い体制側の人間の対比もこの作品の魅力だと思う。また、佐々木の母が、息子が牢屋に入っても手紙を書けるように字を練習した、というシーンには胸を打たれた。

さて、私が気になったのは、佐々木と笠原の関係である。笠原は佐々木に個人的な感情を寄せ、その活動を支援した。が、佐々木は党の活動に身を捧げてしまっているのでその想いに応えることはできない。ではいっそのこと笠原も佐々木と同じように党生活者になれるかといえば、それもできないのである。彼女には党員としての資質がなかったのだ。そしてそのことがわかった時点で関係を断ち切らなかったせいで、彼女は職場を首になり喫茶店でのつらい労働に従事せざるを得なくなってしまった。彼女はずるずると不幸になっていった。私には、佐々木は笠原の個人的な感情につけこんで利用しているように見えた。もちろん、文字通り命を懸けて活動をしている身からしたら私のこのような批判は単なる綺麗事なのかもしれないが、それでも全体を通して「公」と「私」のバランスがあまりにも偏りすぎているように感じた。結局、人間を生きて感情を持っている人間として見ずに、単に人数や役目としてしか見ないという点では資本家も共産主義者も変わらないのかもしれない。これはソ連などの歴史をみれば納得がいく。むしろ、人間の欲望を肯定しているという点では資本主義のほうが人間を正確に捉えているのではないかと思った。


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