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上京してバンドを組むまで1990年代⑥(メンバー募集で出会った人達)

バンド結成するにあたってぼんやりとした理想像はあったが、音楽の知識も少なくはっきりとした方向性は定まっていなかったと思う。

ただなにかを始めたい衝動が先だった。

とりあえず同居人のA君をギターにして、ボーカルは高校の同級生のH君、ベースは俺、あとはドラムを叩いてくれるメンバーを探せばスタジオに入れる。

そう思うとつまらない毎日にも希望が湧いてきた。

話は前後するがA君がウチに来る少し前にメンバー募集でギター志望の青年と会っていた。

名前は忘れてしまったが仮にB君としよう。

B君はその頃人気のあった某有名パンクバンドのローディーをやっているとのこと。

船橋駅で待ち合わせすることになり「なめられたくないぜ」と思った俺は全然そういうキャラではないのに改札口前にアロハシャツでタバコを吸いながらヤンキー坐りで待っていた。(コワイ人に絡まれなくて良かったね)

現れたB君は目つきも鋭く、どこか修羅場(B君がローディーをやっていたというバンドの曲名にも修羅場っていうのがあったな笑)をくぐってきたような雰囲気をしていて、今ではどんなことを話したのか忘れてしまったけど途中からなんとなく「これは脈なしだな」という予感がした。

案の定B君とはそのうち連絡がつかなくなり、B君がバイトしているというキャバクラにまで訪ねていったりもしたが、この話は無しになってしまった。

音楽性うんぬんの前に俺の上辺だけのハッタリ、屁のつっぱり感を見透かされていたのかもしれない。

話は戻ってA君、H君とのバンドでのこと。何度も出しているメンバー募集にドラマー志望だという女の子から問い合わせが来た。

この人の名前も忘れてしまった。仮にCさんとしよう。

Cさんはケバくてヤンキーっぽくもなく、不思議ちゃんぶってるバンギャルっていう感じでもなく「RAMONESが好き」という共通点もあって期待が持てたのだけれど、、。

当時は当然携帯もなく連絡は家の電話へのみ。しかもCさんは実家に住んでおり、連絡を取りたかったらそこに電話するしか方法がない。

Cさんのうちに電話をするといつもお母さんが出て毎回ものすごい剣幕で「Cはいま居ないよっ!」と怒鳴りつけられて一方的に切られてしまう、、。

家庭になにか複雑な事情があったのだろうけど、そんなわけでCさんとの繋がりもそこで切れてしまった。

Cさんとまだ連絡が取れているころメンバー募集で別の会合に一緒に行ったことがある。

なんだか音楽オタクっぽい人達の集まりで、なぜか手料理(その場で焼き鳥を焼いて)を振る舞われながらいろいろと話したけれど、俺とCさんはほとんど話についていけず置いていかれてしまった。

帰り道「さっきのアイツら音楽の話についてけない人はご遠慮くださいっていうノリなんだよ!」と怒るCさん。

たしかにどこか試されてるような感じもあった。

帰りの駅までの道のりを二人して肩を落として歩いた覚えがある。

もう一つ思い出した。

いま40代半ば位の人は覚えているかもしれないが、当時メンバー募集サークルみたいなものを商売にしている人もいた。

登録すると案内が来て喫茶店みたいなところに集められ、会費を払った上でそれぞれがやりたい音楽性を発表し、その場に話が合う人がいれば連絡先を交換するという。

そこに前述のH君(高校の同級生)と一度だけ参加したことがある。

今考えるとなんとなく胡散臭い感じもするし、集まっている人達とも話は合わなかったけど、一人だけUSハードコアとか好きな人がいて(Iさんといった)その人とは電話番号を交換した。

Iさんがのちに結成したバンドは見る機会を逃してしまったけどライブハウスで一時よく名前を見かけた。

当時、日本に海外のハードコアパンクの情報がどんどん入ってくるようになって、今までは「革ジャン、ブーツ、喧嘩上等、目立ったやつはボコられ(俺は運良くそんな目にあわなかったけど)、たまにシンナーも吸っちゃう」という様な良くも悪くも日本の伝統的な不良スタイルをどこか引きずっていたパンクシーンに少し変化が見られた気がする。(あくまで個人的な主観ですが)

ファッション的にもネルシャツやニットキャップの人も良く見かけるようになってきた。

もともとワルでもないし、昔から伝統的な不良スタイルには馴染めなかった。(というとカッコいいけど正直その世界がコワかっただけ...笑)

といってもいつの時代もいろんな人がいるし、俺はたまたま運良くコワイ目に合わなかっただけかもしれない。

でもなんとなくシーンの風通しが少しだけ良くなった気がして、今まで以上にライブに行くのが楽しくなってきたことは確かだった。



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