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2回目で涙。 映画「かいじゅうたちのいるところ」(感想)

 初回鑑賞後、私は唸った。「ウウウム‥」ではない。「ガルルルルル‥」である。でも大事な何かを見落としている気がして、レンタルし直してもう一度、さらにもう一度と観た。見れば見るほど心に何かが溜まっていく、これは「ペインアンドゲイン 史上最低の一攫千金」を観たときの体験と似ている。

 当方、28歳にして25年来の原作ファンである。本屋さんで随分ねだって買ってもらった記憶がある。何度かダメと言われたものの諦めずねだり続けた結果、親が折れた。ごね勝ちである。それ以来いつでも自分の部屋に置いていて、高専の寮に入ったときも、就職で上京したときも、離婚するために家を飛び出したときも、いつも私と一緒だ。

 映画が2010年に日本公開されたとき、その原作の魅力が損なわれるのが嫌で観なかったが、もう随分心の広い大人になったことだし、やっと観ることにしたのだ。今回のネタバレ範囲は、原作絵本と同じ部分・予告編・映画序盤とし、映画版の込み入ったかいじゅう事情は本編でお楽しみいただけるようにしたので安心してほしい。そして鑑賞には日本語吹替をお勧めする。

 原作絵本のあらすじはこうだ。

 いたずらっこの少年マックスがいたずらの限りを尽くしてお母さんに怒られ「晩ごはんは抜きよ!」と子供部屋に閉じ込められる。すると部屋の中ににょきにょき木が生えてきて、海まで現れ、小舟に乗って旅をする。
 流れ着いた島で、かいじゅうたちが「お前を食べちゃうぞ!」と襲ってくるが、マックスが「ぼくはお前らの王様だぞ」とはったりをかますと「おお~王様か!」とかいじゅうたちは何故か納得、かいじゅうと楽しい生活を送るも寂しくなって「やっぱり帰る」という。かいじゅうたちは「(ここからいなくなるなら)お前を食べちゃうぞ!」と寂しがるけどマックスは船に乗って家に帰る。気づけばもとの部屋にいて、置かれていたスープはまだあたたかかった。

 こんな中身のない話を映画にするのは無理だろ!と思っていたらこの実写化だ。案の定、初回観たときの感想は酷いものだった。

知能の低いやつらが人間(かいじゅう)関係をこじらせるとほんとめんどくせえな!

 でも、よく考えるとそれだけでこの映画化は成功だ。メインで登場するのは"子ども"ひとりと、たくさんの"かいじゅう"だけだ。大人は出てこない。物語を堅実に進められるやつはどこにもいない。それで憤慨できるだけのリアリティがこの映画にはある。

 まずかいじゅうのビジュアルは完璧といって間違いない。絵本のかいじゅうは本気で怖い。荒俣宏監修の「怪物誌」という銅版画集に登場するような、昔の大人たちが本当に怖がっていたモンスターに近い。それをポップに改変したりして甘やかすようなことは一切なく、怖いものを怖いまま、気持ち悪いものを気持ち悪いまま映像にしている。

 そして知能が低い。主人公マックスの子供としての知能の低さとはまた違う。下等な生き物としての知能の低さだ。

「こういう"問題"は食べるに限る」
「噛むのはいいけど食べられるのは嫌」
「忘れ物を取りに戻っただけ。枝なんだけど‥知らない?」
ブチィッ(揉めた仲間の腕を引きちぎる)

といった具合に、コミュニケーションはとれるが人間より野生の、ふとしたら次の瞬間には襲われるかもしれないという恐ろしさを湛えている。かなり厳密に見極められた知能のレベル感であることは間違いない、紛れもなくかいじゅうたちはそこにいる。だからこそ彼らの物語に初回、あまりにも憤慨したのだ。だって泥団子合戦で本気で揉めるとかそんな低レベルな諍い、見たくもないでしょ?!

大すきな人たちと、ずっと一緒にいるにはどうしたらいい

 かいじゅうたちは島でずっと生活をしている。彼らの家族は彼らだけだ。でももう、どうにもならないところに来ている。大切なひとたちと、ずっと楽しく暮らしていたい。その思いはみんな一緒なのに、ほころぶところまでほころんでしまった。

 だから家を壊す。本当は楽しいだけの生活が待っていたのに、そうはならなかった。もうここにはいられない。だから次の"本当"に期待を託して今の生活を壊す。心の叫びがそのまま咆哮となり、怒りは暴力となってそのまま破壊を尽くす。心の器が割れそうなとき、私たちの中でだってかいじゅうが大暴れしているのだ。その痛烈な思いを、かいじゅうたちは処理できない。"ここではないどこか"など無い、彼らの中だけで解決しなければならない。

 そこに現れたマックスは、彼ら(特にキャロルというかいじゅう)にとって救世主だったに違いない。全てをあるべきところに配置して、答えを与えてくれるに足る存在だった。

 かたやマックスには年の離れたお姉ちゃんがいて、いつも遊んでほしいのにお姉ちゃんにはお姉ちゃんの友達がいる。自分は相手にしてもらえない。かいじゅうたちはマックスにとって最高の兄弟だったろう。

 でもマックスはただの子どもで、かいじゅうはただのかいじゅうだ。救世主でもなければ兄弟でもない。今欲している理想の相手像に勝手に押し込めて、自分勝手に傷つくだけだ。

帰るべきところ

 "home"。誰しもにあるようで、一握りの人たちしか見つけられていない。マックスには帰る家がある、でもかいじゅうたちは‥? 島に残されたかいじゅうたちは自分たちで答えを導かなくてはならない。彼らの地獄めぐりはきっとまだ続くだろう。

 私たちの多くは、きっとかいじゅう側の人間だ。それでもラッキーなことに私たちの世界は開かれていて、今の居場所だけで答えを探す必要はない。心のかいじゅうを飼い馴らして、次の航海に出ることができる。

まとめ

 回数を重ねるほど、自分の中の原初の感情と向き合わせてくれる不思議な映画だった。ワーナーから全編再撮影を求められたというのも理解できるし、原作者のセンダックがこのままでいいと押し切った理由も理解できる。子どもの頃絵本を読んだ、もう大人になってしまった子供たちが再び出会うべき映画として、私の前に立ちはだかってくれたことに感謝したい。

 音楽は「赤ちゃん泥棒」「マルコヴィッチの穴」のカーター・バーウェルだ。かなりエキセントリックで、世界観どうなってるんだ!とこれにも初回はかなり憤慨した。でも2回目以降はすんなりと入ってくる。これは主人公マックスという子どもの持つ、子どもなりのストレートで複雑な心象というものを本人の視点で表現しているからだろう。子どもにだって、かいじゅうにだって、彼らの複雑な社会がある。音楽が強烈に大人の頬を打って、それを思い出させてくれるのだ。

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