![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/54283936/rectangle_large_type_2_a07c1b10b2d7cf19b4a4e83bd014491c.jpg?width=1200)
蛙のつぶやき
【井の中の蛙大海を知らず】
ということわざ、みなさんもご存知だと思う。
「井戸の中にいる蛙はずっと狭い世界しか見たことがなく海を見たことがないため、視野が狭くありきたりの知識しかない」
という意味らしい。
何度も書いているけど、わたしは長〜〜〜いこと病院で暮らしていた。
どれくらい長〜〜〜いかって、
生まれた赤ちゃんが三十路を過ぎて、親族から少しずつ【結婚】というワードがフェードアウトしていく年齢になるくらい
の長さだ。伝わる?
だから、わたしが何かを書いたり話したりしようとするときは、十中八九「病院にいたときは」という枕詞がつく。
きっと、今後もそれは続く。
なぜなら、わたしは【井の中の蛙】のようなものだから。
「やんや、またその話かよ」と思われるかもしれないけど、許してほしい。蛙だもんで。
誤解のないように言うけれど、病院で暮らすみんなが【井の中の蛙】なわけではないよ?
これは、あくまで【わたし】の話。
そんな蛙のわたしは、20歳くらいの頃、まだ見ぬ大海に大きな夢を見ていた。
井の中(病院)から大海(院外)に飛び出していった先人に話を聞くたびに、夢は大きく広がった。
高等部を卒業して2年も経っているのに何もしていない…!という焦りもあった。
地域で暮らす先人たちに「こんなところ(病院)で暮らしてていいの?」みたいに下に見られているような劣等感も強くあった。
その人たちのほうに行けば、自分も障害者の中の勝ち組になれる!と、当時はけっこう本気で思っていた。
「自分がどう生きたいか」より、
「どう見られるか」ばかりを気にしていた。
そうして、「わたしも大海に飛び出したい!!」と思うようになり、先人の力を借りて無理にでもそれ(自立生活)を実現させようとした。
大切な人たちを悲しませても、強行しようとした。
夢が広がるほど、視野が狭くなっていた。
夢を叶えようと思うほど、まわりが見えなくなっていた。
なんという皮肉だろうか。
結局、このときの計画(ほぼ無計画だけど)は、わたしにそこまでの覚悟がなかったという、しょーもない不完全燃焼で失敗に終わり、そこからさらに長い井の中の蛙ライフを送ることになったのだけど。
でも、結果的に、それでよかった。
もし、そのとき、そのまま自立生活を強行していたとしたら。
それはそれで、そちらを選んだなりにいいこともあったかもなーとは思うけど、いまの幸せは絶対になかった。
そして、わたしが嫌いなわたしになっていたと思う。
そう思うと、ぞわぞわする。
力を借りておいてアレだけど、わたしは元々先人たちの強引な雰囲気が苦手だった。
その強引さを頼もしいと思ったこともあるけど、やっぱりだめだった。
キラキラした大海を見せられて、目が眩んだんだろうな。
いま、ちょっと歳食ってから大海(っていうほどではないか…湖くらいかな)に出てみたけど、大海もそんなにキラキラしているわけじゃないんだな…ということがわかる。
それなのに、井の中しか知らない人にキラキラな面ばかりを見せたり知らせたりするのは、誠実ではないと思う。
わたしも、病院にいた頃は重度訪問介護の時間数のこととか知らなかったし、「いつでもヘルパー使って楽しく自由に暮らせるよ!」としか言われなかったし!
いや、聞けば教えてくれただろうけどさ!笑
それはわたしの怠慢だけど、ちょっと八つ当たり!笑
てか、「ヘルパー使って」っていう言葉も苦手だ。
人に対して「使う」とは…?って、いっつも思う。
たかが言葉でしょって思われるかもしれないけれど、されど言葉だ。
「自分がどう生きたいか」より、
「どう見られるか」ばかりを気にしている。
これは、正直いまでもわたしの中にある。
でも、あの頃、ちょっと覚悟がなかったというへなちょこな理由ではあるけど、自立生活を断念したのは、「自分がどう生きたいか」が上回った結果だったのかもしれない。
失敗して、病院でしばらく暮らす決断をしたからこそ、旦那さんと付き合って、結婚して、いまは誰も悲しませず(たぶん)、わたしも幸せに暮らすことができている。
あの頃のへなちょこなわたし、よくやった!!
ちなみに、先に触れた【井の中の蛙大海を知らず】は、【されど空の蒼さを知る】と続くらしい。
「確かに井戸の中の蛙は広い海があることを知らないが、井戸から見える空の蒼さなど、井戸の中の世界に長くいたからこそ見えるものを知っている」
という意味があるんだそうな。
「井戸の中に長くいたからこそ見えるもの」とは何だろう、と振り返ってみる。
くっそ意地の悪い(おっと失礼)オトゥボネ職員とかの顔が浮かんで、思い出し腹立ちしたりもするけど。笑
いちばん浮かぶのは、長いこと一緒に過ごした同じ病棟のみんなの顔。
みんなそれぞれ事情があって、体調も障害の進行具合も微妙に違って。
元気な姿で退院して自宅で暮らせるのは、本当にわずかなケースしかなくて。
みんな、外に出たい、地域で暮らしたいって、1回や2回は思ったことがあるはずだけど、それでも総合的に考えた結果、病院で暮らすことを選んで、その中で生きがいを探しながら暮らしている。
そんなみんなと暮らした長い月日が、わたしを作ってくれたと思っている。
良くも悪くも だけど。
若い頃は「無駄な時間を過ごしている…」とジリジリ焦がれる気持ちでいたけど、その頃の自分を小突いてやりたい。
無駄なことなんて、ひとつもなかった。
数は少ないかもしれないけど、心から大切な友達に出会えた。
住む場所は違っても、長年築いた絆…っていう陳腐な表現しかできない自分が嫌だけど、それ以外の言葉が見当たらない…は太くて強い。
もうこの世にはいないけど、人たらしでかわいい友達と長い年月を過ごせた。
ほんとにこの子はおもしろくてかわいかった。
前にFacebookには書いたことがあるけど、いつかnoteでも書きたい。
「そんな出会いなら、病院の外にいたほうがたくさんあるじゃん」って思われるかもしれないけど、それは言わない約束だ。野暮な話だ。
あと、意地悪なオトゥボネたちがいたおかげで、あまり得意じゃない人への対処法を身につけることができた。
おかげで、ヘルパーさんでよっぽどの人が来ない限り「あの人より全然まし。勝ちゲー」って思える。
幸せのハードルがやっぱり若干トチ狂ってる気もするけど、健やかに暮らせているから問題なし。
…なんだか、本来の意味とはだいぶ違ってしまったかもしれないけど!笑
何が言いたいかというと。
狭い世界だったとしても、たくさんの喜怒哀楽を共に過した人たちがいること。
何でもないようなことを、幸せに思える幸せを知っているわたしは、幸せだということ。
その幸せに気づける心を持っているということ。
それらが、わたしが「井戸の中に長くいたからこそ見えるもの」だと思う。