学生時代、京都に住んでいた記憶の話
大学4年間を過ごした(らしい)京都、
1年半ぶりに京都へ臨む心情は極めてニュートラルだった。ただ、僕は間違いなくここに住んでいた。
学生時代を思い出して、感傷に浸るわけでもなく、世界的観光都市「京都」の京都を観光客として楽しむわけでもない。
華の無い学生生活を送っていたせいか、感傷的になる材料がない。
だからといって、今さら金閣寺を観たいとも思わない。むしろ、京都が「京都」を演じている様子はどこか気持ちが悪い。
どちらにも行き切らない、極めてニュートラルな心情だった。
本当に僕はここに住んでいたのか?とさえ思った。
さっきから新京極を歩いているが、頭で考えずとも体が勝手に動く。
身のこなし方を体が記憶していたのだ。
これこそ、僕が4年間そこにいたという何よりの証だ。
学生時代にお世話になった人へご挨拶に向かった。僕の性格や所作まで事細かく覚えていた。
京都にいる人に、京都にいた頃の自分の記憶が残っている。
そして、僕の口からたまに出る「エセ京都弁」はこの人から移ったものだ。
やっぱり僕はこの街にいたらしい。
京都をあとにするときも、逢坂の関で涙することもなく、淡々と東山を越えた。
ニュートラルな感情
それでも僕は間違いなくここにいた。
自分の体で記憶し、第三者もまた記憶していたからだ。
All pic. by SIGMAfp & AiAFNikkor50mmF1.4D