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スマホじゃなくて写真機使った方が「なんか良い」よ

手元のスマートフォンで誰でも気軽に写真が撮れる時代。そんな時代に「写真を撮ることしか出来ない」機械を手に入れるのはナンセンスかもしれない。

「それでも写真機を手に入れたい」という人がいたら全力で背中を押したい。

写真機を手に入れたことで、僕は写真にとって大事なことを学ぶことになった。それは、便利が当たり前となった今日を生きる上でも大切なことかもしれない。

JR線の切符として発行できる最も長いルートによる乗車券(最長片道切符)での旅

2019年の冬休み、大学2回生の私は列車で日本列島縦断旅行をした。道中の写真は主にiPhoneで撮った。「お、これは…!」と感じた風物を写真に収めた。

iPhoneを始め、スマホの素晴らしいところは、手のひらサイズの板1枚で、気軽に写真撮影が出来てしまうこと。露出補正を自動で行ってくれるため、暗い場所だろうと、レンズを向ければとりあえず撮れてしまう。撮影したデータは容量50GBのiCloudへ自動保存される。枚数などお構いなしに何カットでも切れる。

しかし、iPhoneだけに記録係を任せるのはどこか心許なかった。

レンズ付きフィルム「写ルンです」

27枚使い切りのフィルムカメラである。

携帯性に優れ、ペットボトルと比較してもこの大きさ

大きさはスマホと同様にポケットに入るほど小さく、質量も90gと軽い。露出設定は固定されており、シャッターボタンを押すだけで写真が撮れる。

そして、なんといっても魅力的なのが何気ないシーンですら印象的に描いてしまう描写力だろう。コントラストの高い色合いと、温かみのある低い色温度、粒状感ある画像には「映り過ぎない」良さがある。巷で言う「エモい」とやらだ。

これらをデジタル写真で再現するのはなかなか難しい。

何気ない海の写真も印象的に描く

一方で、手間を感じる部分もあった。

一つ目は「光を読む」手間である。

どんな環境でも撮れてしまうスマホと比べて、場所と時間を選ぶカメラであった。露出設定は(感度ISO400, SS 1/140, 絞りF10)固定で、光が十分に無い環境だと露出アンダーでうまく写らないことがある。

夜のプラットホームで撮影した1枚。露出アンダーで画が潰れてしまっている。

こうならないために「光を読む」必要がある。日中のような光が十分にある環境で、被写体に対してどちらの方向からどのくらいの強さの光が当たっているかを吟味するのだ。

スマホであれば、そのあたりの設定を自動でやってくれるのだが、「写ルンです」の場合、こちらが条件を整えてあげる必要がある。人間が機械を操る感覚を知った。

朝の松島。光が十分にあれば問題なく「映る」。

もう一つは、「54枚の制約」である。

「写ルンです」1個で撮れる写真の枚数はたったの27枚、2個で54枚だ。iCloudのデータ容量50GBと比べたらスズメ…いや「ミジンコの涙」だ。

無駄打ちは厳禁、シャッターを切るのに値するシーンでのみ写真を撮る。

こうして34日間の長旅が始まった。
まずは、旅の起点である稚内を目指し、敦賀からフェリーで北海道へ出た。
稚内から北海道、東北、関東…と順々に巡り、ゴールの佐賀県肥前山口駅(当時)を目指した。

(宗谷岬/iPhone)
真冬の北海道を列車でゆく(道内某所/写ルンです)
気温-23.5度の日はまつ毛がパチパチした(釧路/iPhone)
冬の道東は晴れ模様(音別海岸/写ルンです)
ホッケ釣りの太公望とリゾートしらかみ(千畳敷海岸/写ルンです)
なんだオメその目は(上山/写ルンです)
なんか寒いと思ったらよぉ…(秋田山形県境付近/iPhone)
10何両も繋いだ電車が5分おきに来てお客を吐き出す?都会は異常だ(錦糸町/iPhone)
たまには駅弁、基本的にスーパーの売れ残りの貧乏旅行(飯田線車内/iPhone)
タイミングが良いと綺麗な景色を拝むチャンスと巡り合う(天神崎/iPhone)
幼い頃ビデオの中を走っていた列車たち、時期的にも最後のチャンスだった(久々野駅/写ルンです)
???「渡っちゃうとよく分からないねぇ…」(瀬戸大橋/iPhone)
アーケード街を抜けることでん(高松/写ルンです)
膨大な石州瓦からしか得られない栄養素がある(温泉津/写ルンです)
極寒の大地から始まった旅も終盤はトロピカルに(青島/写ルンです)
西郷さんの終焉の地、城山から桜島を望む(鹿児島/写ルンです)

寝不足の体に鞭打ち、列車に乗っては歩き、また乗って、また歩き…要所要所で写真を撮る。大半は頭痛との闘いだった気がする。

苦痛が伴うなか、記録係たちは本当に重宝した。道中で気軽に記録を撮るには適したサイズ、そして、旅の歩みを邪魔しない押すだけで撮れる簡単さ。この軽快さは「旅カメラ」の必要十分条件だ。

ただ、どの写真も今では撮らないような低クオリティのものばかりだ…。写真を眺めていると
、ふと不思議な感覚を覚えたのだ。

「写ルンです」で撮った写真の方が「なんか良い」な。

「光を読む」手間と「54枚の制約」でめんどくさかったはずなのに…。しかし、この2つのめんどくささは写真を撮る上でとても大切なことだった。

まず、「光を読む」ことで光と影の存在に気が付けたのだ。iPhoneで撮るとき、僕は漫然とシャッターを切っていた。しかし、「写ルンです」で撮るときは光の強さや当たり方、大きさをよく確認していた。先述の通り、暗い場所だと露出アンダーとなるため、明るい日中を中心に撮影した。これが図らずも光と影の存在に気を配りながら撮ることに繋がったのだ。現に「撮影」は「影を撮る」と書く。

そして、「54枚の制約」でワンカットの価値がスマホよりも跳ね上がったため、1枚1枚シーンと構図を吟味して撮影に臨んでいたのだ。「丁寧に撮ること」である。

今思えば、スマホだろうと写真機だろうと、当たり前の心構えだ。しかし、文明の利器に身を委ねた僕は、めんどくさくて不便な機械を手にするまで気が付けなかったのだ。

その後も、旅行のことを思い出しては「写真をもう少しちゃんと残せていたらなぁ…」と心残りを覚えていた。

約1年後の2020年1月。正月の帰省で祖父の家に訪れた際、フィルムカメラを譲り受けた。そして、8月にはレンズ交換式のミラーレス一眼を購入した。



写真機を使うようになりもうすぐ5年が経つ。光と影の存在を常に意識し、丁寧に撮っているつもりだ。
今使っているミラーレスカメラは「写ルンです」と比べたら圧倒的に便利だ。露出は変えられて、容量も64GBある。それでも、スマホと比べたら手間がかかるし不便だ。

科学技術が発展し「なんでも叶えられる」世の中になった。不便さは悪であり「改善」され、この連続が文明を動かしてきた。しかし、高度な文明の上であぐらをかいてしまったら、僕は退化してしまうのではないだろうか。現に、僕はチャッカマンがなければ火起こしすら出来ない。だからと言って、IHクッキングヒーターを処分して火打ち石に戻れというのは苦しい。

僕は写真機との出会いで、少し不便な状態を知っておくと結果的に今日の文明の利器を使いこなすことができることを知った。

そして、「写真を撮ることしか出来ない機械」で撮った写真は「なんか良い」。
写真機を手に入れようか迷っている方、イカマリネにご相談ください。全力で背中を押します。

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