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◇1 躁鬱、前夜

双極性障害と診断されて、今年で6年目になります。
今年もまた春が死にました。
薄れゆく記憶を、ざくざく掘り起こしてみたいと思います。


「お願いだから、私のことを殺して?」
そう母に頼みました。綺麗な春の日でした。


子どもの頃から、他者の評価に敏感でした。

「これをしたら、どう思われるだろう?」
「こんなこと、恥ずかしくてできない!」

そういう風に考え、新しい行動を起こせないという傾向がありました。



それでも中高時代、もちろん小さな問題はたくさんあったけれど、
どうにか対処し、大きな不適応を起こすことなく、卒業しました。

でも、大学に入ってから、全てが上手くいかなくなりました。
どうしても、「普通の大学生」ができませんでした。


人との関わりが多いアルバイトが続かない。
サークル活動でたくさんの人と接することに異常に疲弊する。
人と話すことに体力を消耗し、家に帰ると何もできなくなる。


「何でこんなに疲れるんだろう?」「何でみんなみたいにできないんだろう?」
考えても、答えは出ませんでした。

その時は、精神疾患に対して偏見を持っていました。
「うつ病なんてただの甘え」と思っていました。
薄々、気づいていたとは思います。
でも、正面切ってそれを認める勇気はありませんでした。


捌け口になったのは、食べ物でした。
家族に隠れて、家中の食べ物をかき集め、泣きながら食べ漁りました。

帰り道、どうしても我慢できなくて、人目もはばからず、電車の中で菓子パンを何個も口に運んだこともあります。


だましだまし、なんとか取り繕っていましたが、そのうち、限界が訪れます。


アルバイトに出勤できず、連絡なしに出勤しなくなりました。鬼のように電話がかかってきましたが、電源を切って無視しました。

サークルに行けなくなりました。辞めるために話し合いが必要だと言われましたが、約束をすっぽかしました。
はじめは優しかったですが、連絡を一切返さない不誠実な私の態度に対して、だんだん怒りを向けられるようになりました。当たり前のことです。

メッセージを見るのが嫌になり、LINEのアカウントを消しました。
中高時代の親友とすら、連絡が取れなくなり、孤立しました。



知り合いと顔を合わせるのが怖くなり、大学のある駅まで向かうことはできるのに、どうしてもキャンパスに入れず、引き返すということを繰り返しました。


こうして、社会との繋がりを一切絶った私は、「もう死ぬしかない」という考えに至り、自宅で大量の風邪薬を服用しました。

そのときは知りませんでしたが、オーバードーズは簡単に死ねる方法では全くありません。
ただ猛烈に気持ち悪くなって、大量の虫の幻覚を見ただけでした。


2週間以上入浴せず、ただ自宅で食べて寝ていただけだった私は、ついにぶっ壊れました。
死ぬこと以外、考えられませんでした。でも、実行する勇気がありませんでした。後遺症が残るかもしれない、その1点だけで引っかかっていました。



「お母さん、生きてて楽しい?私は全然、楽しくない。お願いだから、私のことを殺して。」


そう、頼みました。


いのちの電話に掛けたりもしたけれど、
「それは辛かったですね」を永遠、繰り返されるばかりだった。
虚しくなり、話の途中で電話を切った。







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