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私なら…の気持ち

私は、なるべく、私がされたら嫌な事はしないし、言われたら嫌な事は、言わないようにしている。

でも、それが、相手にとっては、逆の場合もあるかもしれない。いわゆる、準拠枠問題の勃発である 笑。

昨日、ツイッターで話題になっていた新宿駅での人身事故のニュース。

人って、怯えたり、パニックになったりすると、とてつもなく冷酷になるのだと怖くなった。

でも、きっと見えてなかったら、そうしたのだろう。
みえてたら、怖くて、申し訳なくてできないだろう。

日本人はどんどん想像力が衰えてきているのだろうか?

昨今、SNS上では、容易に「死ね」という言葉が飛び交っている。

でも、私は今までに一度も、「死ね」と誰かに言ったことはない。
言って、何らかの理由で相手が死んでしまったら、私のせいだと思うからだ。

今までに何度か、テレビで芸能人の人が、「あの時は死のうと思った」と激白するのを、見てきたのだが、見るたびに、私はわざわざ言うことなのかと、不思議でたまらかったことがあった。

でも、あるとき、ふと気がついた。

人って、あまり死にたいとかって、思わないものなのだ。と。

それを知った時の衝撃は、今でも忘れられないでいる。

まぁ、私も死にたがりではないのだけど 笑。

でも、やっぱり、誰かに「死ね」と言われたら、死んだ方がいいのか考えてしまうに違いない。

それだけ、言葉は、命は、重いのだ。

だから、私は、誰にも言わない。

最後に、いつもニュースを見るたびに考えるのだけど、もし私が不慮の事件や事故にあって死んでしまった時に、ニュースで、私の変な顔の写真や、SNSの恥ずかしい書き込みや、あまり仲良くもなかった人のインタビューとか、絶対誰にも見られたくないと思うのだけど、他の人は、嫌じゃないのだろうか?

私だったら、恥ずかしくて、死んでも死にきれないし、
かといって、誰にも文句も言えない。

報道の自由があるのは、分かっている。
でも、報道される側には、選択肢がないなんて、酷だ。

知る権利。
知られたくない権利。

私だったら、本人が知られたくない事なら、知りたくないと思ってしまう。

だって、私だったら、絶対に嫌だから。

だから、私は、私ならと考えてから、発言し、行動するようにしている。

でも、もしかしたら、私がものすごく秘密主義なだけかもしれない。

万が一のときの、自分に非がない時は、報道されない保険とか、あればいいのに。と切に願う。

それか、身代わりになってくれる、ニュース身代わり劇団とか、いや、一番良いのは、毎日平穏無事に、ニュースとは縁遠い事である。

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