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2004年 ファイターズを振り返る "移転"


2004年のプロ野球

2004年 パリーグ順位表

プレーオフ成績

<第1ステージ>
西武 2勝1敗 日本ハム

<第2ステージ>
西武 3勝2敗 ダイエー

※2004年は、2位と5ゲーム差以上だと1位チームにアドバンテージ1勝が与えられるというルール。4.5ゲーム差のため、シーズン1位チームであるダイエーのアドバンテージはありません。

<日本シリーズ>
西武 4勝3敗 中日

<2004年のプロ野球>
異常な打高投低のシーズンで、巨人のチーム本塁打数が259本(プロ野球新記録)、ダイエーのチーム打率が.292という、今では信じられない数字を叩きだしています。
逆にチーム防御率は、セリーグ王者の中日以外は4~5点台。この年まで飛ぶボールが使われていたと言われていますが、正確なところは不明です。

6月に近鉄がオリックスに身売りという衝撃的なニュースが流れ、ファンからは非難の声が殺到し、オーナー側と選手会が激しく対立。9月18・19日にプロ野球史上初のストライキが実施され、各球団の年間試合数は当初予定の135から133に減少しています。

8月にはいわゆる「一場事件」が起こります。
巨人・横浜・阪神の3球団が、ドラフトの目玉と言われていた一場靖弘(明治大)に対し、数十万円~200万円程度の現金を供与していたというもの。これは明確に日本学生野球憲章に違反する行為です。

ただし、主に逆指名(自由獲得枠、希望入団枠)で入団する選手に対しては、億単位の裏金が動くのが当たり前と言われており、一場だけが槍玉に挙げられるのは気の毒な部分もありました。
もともと反対意見の多かった逆指名は、この後廃止の方向に動いていき、2007年秋のドラフトから完全に廃止となりました。

ということで「球界再編」という言葉もよく聞かれた2004年、パリーグは序盤からダイエーと西武が抜け出して2強体制を築きます。
9月以降は一度も首位を譲らなかったダイエーが1位、西武は2位に終わりましたが、2位の西武も貯金が16もありました。
ダイエーはオリックスに23勝4敗と大きく勝ち越しましたが、1つの球団から19も貯金を作るのは歴代最多タイの記録です。

日本ハムは長く3位をキープし続けます。シーズン終盤にロッテが猛追撃を見せ、この年から始まったプレーオフを盛り上げるかのような激しい争いが続きますが、日本ハムが競り勝って3位でプレーオフ進出。
ロッテはわずか0.5ゲーム差で4位に終わりました。

6月13日にオリックスとの合併が発表され、この年限りで消滅することが決まっていた近鉄は、8月前半ごろまでは3位争いに絡みますが、その後脱落。有終の美を飾ることはできず、5位に終わります。
7月前半ごろまでは僅差の最下位だったオリックスは、その後転落の一途をたどり、ぶっちぎりの最下位に終わりました。

プレーオフではシーズン2位だった西武が第ステージで3位日本ハム、第2ステージで1位ダイエーを破り優勝を決めます。
というわけで西武はシーズン2位ながら日本シリーズに登場することになり、プレーオフへの反対意見が噴出しました。

セリーグは5月まで大混戦で、少ないゲーム差で6チームがひしめき合っていました。
抜け出したのは中日で、7月以降は一度も首位を譲らず、2位以下に大差をつけて5年ぶりの優勝となりました。
落合博満監督の就任初年度でもあった中日ですが、ここから退任までの8年間で優勝4回、ほかもすべてAクラスという黄金時代となります。

長らく2位をキープした巨人ですが、最後にヤクルトに抜かれて3位に終わります。ヤクルトが2位でした。
5月は首位にいる時期が長かった阪神は、同月下旬から負けが込み始めて借金生活に突入。上位とも下位とも離された4位に終わります。

広島と横浜は、4位阪神と離された位置で最下位争いを繰り広げます。
広島のほうが最下位にいる時期が長かったのですが、最後に横浜を抜いてゲーム差なしの5位。
6年前(1998年)の優勝チームである横浜は、その面影すら残っておらず、3年連続の最下位に終わってしまいました。

セリーグではプレーオフが導入されておらず、プロ野球界の不一致・足並みの乱れを露呈することに。
セリーグは優勝チーム・中日が日本シリーズに自動的に進みますが、4勝3敗でパリーグ王者の西武が制しました。

秋のドラフト 日本ハムの指名選手

2003年秋のドラフト 日本ハムの指名選手

投手力が課題だったチーム事情を踏まえ、上位指名はいずれも投手となりました。この年のドラフトは、多くの選手がそれなりに活躍したという印象です。
糸井は投手としては制球難に苦しみましたが、外野手に転向して大ブレークすることになりました。

須永は巨人入りを熱望していましたが、日本ハムが強行指名。交渉の結果、入団させることには成功しました。
しかし毎年期待されながらなかなか芽が出ず、2016年まで13年間の現役生活を送りましたが、一軍登板は30試合にとどまっています。
押本・稲田・金森はプロでそれなりに活躍しており、全体的に良いドラフトだった年だと思います。

日本ハムの新入団選手

2004年 新入団選手(ドラフト除く)

北海道移転初年度ということもあってか、なかなか気合の入った補強ぶりを見せました。
新庄は4年ぶり、セギノールとオバンドーは2年ぶりの日本球界復帰です。

セギノールは2002年にオリックスに所属し、打率.204、23本塁打に終わりましたが、日本ハムでは打率.305、44本塁打と大爆発して本塁打王のタイトルを獲得しました。
オバンドーはシーズン途中に日本ハムに復帰し、エチェバリアの不振の穴を埋める活躍を見せています。

横山・入来・河本も随所で活躍を見せており、この年の補強は大当たりだったように思います。

日本ハムの退団選手

2004年 日本ハムの退団選手

クローマーは2002年に主砲として活躍しましたが、翌2003年は振るわずに退団しています。
隼人・井出は巨人の入来・河本とのトレード。野中は中嶋とのトレードです。中嶋はベテランの控え捕手として長く活躍します。のちにオリックスの監督としてチームを優勝に導いたのは記憶に新しいでしょう。

厚澤は現役時代は0勝に終わっていますが、指導者として花を開かせ、2023年にはWBC日本代表(侍ジャパン)のブルペン担当コーチを務めています。

主な打順

2004年日本ハム 主な打順

※黄色背景の太字は、リーグ最高

オリックス時代はさんざん打撃フォームをいじられて成績を残せなかったと言われるセギノールですが、ファイターズに来て本塁打王を獲得。成績を残せると判断しての獲得ではありましたが、ここまでの爆発は予想以上ではないでしょうか。

打順はまだまだ試行錯誤の段階。新庄が1番に入ったり、木元が2番に入ったり、石本が1、2番を務めたり・・・。
セギノールも実は不動の4番ではなく、エチェバリアや高橋信らが4番に入る試合もありました。

良く言えば激しい競争、悪く言えば不安定な打線であり、優勝に届かなかった一因と言えるでしょう。

主な投手陣

2004年日本ハム 主な投手陣

※黄色背景の太字は、リーグ最高

すでに書いたように、この年は飛ぶボールが使われている(と思われる)ので、全体的に現在の野球に比べて防御率が悪いように見えてしまいますが、ある程度は仕方がありません。

ただ、それを考慮に入れても投手陣の層が薄く、優勝争いに食い込めなかったのは投手陣が原因であるのは明らか。
先発は金村・ミラバルに続く3番手以降が安定しません。
救援陣は横山が最優秀救援投手(最多セーブ)のタイトルを獲得しますが、中継ぎ陣が安定感を欠いているため、横山につなぐ前に炎上する試合も少なくありませんでした。

2004年のファイターズを振り返る

ビジターとはいえ、移転初年度は3連敗スタート。開幕7試合で2ケタ失点を3度も記録しており、看板の「ビッグバン打線」に比べて投手陣の低調さは変わらないままでした。
大型連勝も大型連敗もなく、1年を通して良くも悪くも安定して3位につけていた日本ハム。ダイエー・西武の2強の背中は遠く、7月終了時点で首位ダイエーとは9ゲームも差があり、優勝は非常に厳しい状態に追い込まれます。

一方で、この年から導入されたプレーオフ進出争いは激化。早々に最下位に固定されたオリックスを除き、日本ハム・ロッテ・近鉄の3球団による激しい3位争いは最後まで続きましたが、僅差で日本ハムが制しました。
日本ハムは4年ぶりのAクラス入りを果たしますが、プレーオフ第1ステージでは西武に1勝2敗で敗れました。

メジャーから復帰した新庄(登録名:SHINJO)が攻守に躍動し、パフォーマンスでも大いに盛り上げてくれました。
「ふざけすぎ」などの批判もありましたが、新庄目当てで球場に足を運んだファンはかなりの数に上るでしょう。この時ファイターズファンになった方たちの中に、いまエスコンフィールドに来場している人が少なくないであろうことを考えれば、新庄の功績は大きなものであることは言うまでもありません。

社会人出身のルーキー・押本健彦が先発投手として7勝を挙げる活躍を見せましたが、若手の台頭は限定されたものとなったシーズンでした。
1990年代からの課題である投手陣の立て直しには、相当時間がかかると思われました。

移転効果により、観客動員数は(水増しされていて当てにならないとはいえ)前年比約30万人増の161万人を集めました。
しかしチケットが取れないとか、混雑でどうしようもないというような試合は、それほど多くありませんでした。

道内マスコミが連日ファイターズ情報を熱心に報道するのですが、当時はまだ巨人ファンを続行する方のほうが多かったように思います。

2004年のファイターズ 思い出の試合

思い出の試合

勝利投手:河本育之
敗戦投手:三瀬幸司

これはストライキ明け最初の試合でした。
おそらくこの年までは飛ぶボールが使われていたはずで、この試合は日本ハムが小笠原(2本)、新庄の3本、ダイエーは井口資仁、本間満(駒大岩見沢高出身)、宮地克彦、ズレータの4本、計7本のホームランが飛び交う空中戦となりました。

一時は首位ダイエーが6点をリードするのですが、6回裏に小笠原の3ランなどで4得点を挙げて逆転。
しかし7回に宮地の2ランで再逆転され、8回表にズレータにも2ランを浴びてしまいます。

万事休すと思われましたが、9回裏に同点に追いついてなおも2死満塁のチャンスで、ダイエーのストッパー・三瀬から1番新庄がサヨナラ満塁ホームラン!!!!

・・・かと思いきや、新庄はランナーの田中幸雄と抱き合って喜び合い、これがランナー追い越しと判定されてアウト。打点4のホームランから、打点1のシングルヒットになってしまいました。
それでも勝ちは勝ち。新庄は意に介さなかったそうですが、田中幸は相当悔やんだそうな。

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