花柳病
花柳病とも呼ばれた淋病は、もとは西インド諸島の風土病でしたが、コロンブス一行がヨーロッパに持ち帰り、それからアジアに伝播したと言われています。
日本では1512年に最初の患者が出て「唐瘡」「琉球瘡」などとよばれました。遊郭などの花柳界での伝染が多いことから、花柳病と呼ばれるようになります。
福岡では明治12年に梅毒の検査が開始されましたが、当初は大混乱となったそうです。
そんな検査は嫌だと、娼妓達が拒否したのです。
「梅毒検査などといって、実は中にある真珠をとろうとする。真珠をとられると長生きできない」という噂まで広まったそうです。
大阪では検査を恥じて自殺するものが出たり、検査のない京都へ逃げ出すものもいたそうです。
明治35年に福岡では「娼妓健康診断所」と言う名前の病院を設立しますが、場所が離れていて不便なため、大正6年には柳町に病院が建てられます。付近の人達は「おんなの病院」と呼んでいたそうです。
明治44年2月、久留米を中心に陸軍特別大演習がおこなわれました。大演習には天皇、大臣、将軍も来るので、多くの人が福岡にやってきます。
そこで、花柳界の検査を徹底的に行うことになりました。娼妓達は「娼妓取締規則」という法律で検査が決められていましたが、芸妓や酌婦は検査がありませんでした。そこで、業者に保険組合を作らせることで、強制的に実施しました。
この検査には博多の芸妓達が猛反対をし、各方面の名士に頼みんだそうです。
すると県議会でもこの検査は人権蹂躙だと非難する人も出てきて、揉めたとか。
その後、昭和2年になると「花柳病予防法」が発令されます。伝染防止の方法が詳しく規定され、性病を他人にうつしたものは罰せられることになりました。
自分がかかっているのを知りながら、他人に移したり、病気を持っているのがわかっていて営業させた者も罰せられるようになりました。
ですが、予防法はできたものの、検査を強制的にやってよいというわけではありませんでした。
戦争が始まると、徴兵検査によって男の花柳病患者は完全にわかるようになります。
戦地では共同生活ですから、梅毒持ちは徴兵に受からなかったのです。
戦争に負けた後は公娼制度自体が廃止され、私娼が跋扈します。そのせいで猛烈な勢いで花柳病が蔓延しました。
その為、昭和23年に性病予防法が発令されます。全国の実態調査がおこなわれましたが、福岡の性病患者の総数は2万5千人。
全国で1位だったそうです。