博多の券番の歴史
券番とは芸妓達のプロダクションのようなもので、芸妓のために仕事の斡旋や管理をする組合として運営されていました。
第一次世界大戦の戦争景気で博多の花柳界は賑わいを増しました。
芸妓の需要は激増し、とにかく頭数を揃えるため、芸の修行どころではなく歌もろくに歌えない芸妓が増えました。
侠気と粋をもった明治の流れをくむ博多芸者は年配の人だけになっていきます。
それでも、大正5年に福岡で行われた陸軍特別大演習の時は約500名の芸妓は通常の三倍の売り上げをあげたそうです。
この好景気は大正9年4月に最高潮に達しますが、その後戦争バブルははじけ下降していきました。
この景気がよくなっていく過程で、料理屋と券番が衝突します。
大正5年頃は、芸妓を呼べる料理屋は約200件ありました。
線香代一本(線香が一本消える時間、芸妓を拘束すること)18銭のうち、5銭が料理屋の収入で、この割合をめぐっての衝突でした。
料理屋は場所を与えて働かせてやってると言い。
芸妓は自分達がいるから料理屋の経営が成り立つと言い。意見は平行線をたどります。
もつれた挙句、福岡市料理屋貸席同業組合は中州、相生、水巻の三券番の芸妓は座敷に呼ばないと決めます。
しかし、芸妓がいないことで料理屋の客足は遠のいていきます。
料理屋はなんとかして芸妓を確保しようと新しく芸妓を雇って総勢100名の博多券番(博多で現存する唯一の券番)を新設し、さらに足りないと久留米辺りからも連れてきました。
しかし、芸の未熟な者も多く、お客は満足しませんでした。
三券番のほうでも料理屋組合の切り崩しにかかります。
提携すれば芸技を送り込むと勧誘を始めます。
その結果、約半数100あまりの料理屋が三券番と手を握りました。
こうして博多の料理屋と芸妓達は真っ二つに別れました。
このままではいけないと、大正7年に福岡市で行われる予定になった九州沖縄物産共進会で、二つに別れた券番を仲直りさせようと、協賛会が四つの券番を参加させることにします。
しかし、三券番が博多券番と一緒なら参加しないと断ってしまいます。
これに憤慨したのは老妓(ベテランの芸妓)達でした。
自分達に相談もなしに断って、これでは贔屓にしてもらってる協賛会の委員(博多の実業家達)に顔向けができないと自主休業してしまったのです。
忘年会の忙しい時期だったのもあり、券番は芸妓達を説得しますが彼女達は聞く耳を持たず問題はこじれるばかりでした。
そこで、当時博多の顔役であった太田太兵衛という人が仲裁に入り、なんとか休業をとりやめるよう説得しました。
料理屋組合は、これを機会に三券番と話し合い長い間の対立も解消されたと言います。