ラジオと芸者
大正芸者とは、芸事に関心がない芸妓の代名詞でした。
ところが、昭和になるも芸技のプロダクションである券番は唄や三味線の師匠を東京から招いて芸の向上に努めます。
その理由は昭和3年に九州で初めて放送局ができたからでした。当時のラジオ番組のうち、邦楽の出演者はほとんど芸妓が占めていたのです。
ラジオ番組で放送されると、芸が比較されるので、各券番とも技術の向上に必死になりました。
芸事に熱心だった水巻券番はその高い技術で他を圧倒します。
技術で劣る中州券番は大合奏など数で対抗しました。(所属は水巻が100名に対して中州は400名を越えていたそうです)
もっとも古い相生券番の芸は、水巻の深さ、中洲の華やかさはないものの、そのおっとりとした演奏は、別な味があると言われました。
博多券番は、新しくできただけに芸では他の券番には劣ったそうです。
券番によって客層は違っていたようで、中洲、博多は銀行、会社員が主な客でした。
水巻は炭鉱関係者や官吏が、相生は株屋や商売人と強い繋がりを持っていたそうです。
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