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甘棠館四天王と呼ばれた男達、というか日本人って通り名が好きだよねという話。


江戸時代中期、福岡黒田藩が建てた学問所甘棠館(かんとうかん)には四天王と呼ばれた男達がいました。

甘棠館の館長は、金印を鑑定したことで知られる亀井南冥。

その下で塾生を指導する訓導(先生)の中でも特に優れた四人が甘棠館四天王と呼ばれました。

亀井昭陽(かめい しょうよう)
原古処(はら こしょ)
江上苓州(えがみ れいす)
山口白責(やまぐち はくせき)

の四人です。

亀井昭陽は前の記事にも書いた亀井南冥の長男。

原古処は後に黒田家の支藩、秋月藩の藩校稽古館の館長になった人です。

亀井昭陽は文才に優れ、原古処は漢詩に優れていたので、当時「原詩亀文(詩の原に、文の亀井」と言われました。

江上苓州は天草の人で亀井南冥が謹慎の命を受けた後、二代目の甘棠館館長になります。

この時、亀井南冥は自分の娘を苓州に嫁がせようとしますが、彼は断っています。

甘棠館が焼失した後、亀井昭陽と共に城代組平士に編入されますが

「私は儒者であり、それ以外の生き方はできない」

と言って家督を息子に譲って隠居しました。

彼の孫である江上栄之進は、幕末に尊皇の志士として活動しています。 

山口白責は亀井南冥の娘を娶り亀井家の娘婿として生きました。

日本人はとにかく四天王とか〇〇の〇〇といった通り名をつけるのが大好きです。

甘棠館初代館長の亀井南冥はその性格から

「侠儒(任侠の侠に、儒者の儒)」

と呼ばれました。また、本人は自分のことを

「東西南北人(権力に縛られない自由人という意味)」

といい、そう書いた篆刻印を持ち歩いていました。

南冥の3人の息子(昭陽、大壮、大年)と弟の曇栄を合わせて

「筑前五亀(筑前には優れた五人の亀井姓がいる)」

と呼ばれていました。

原古処の娘、原菜頻は江戸三大女流詩人の一人に数えられ、亀井昭陽の娘である亀井小琹とともに

「閨秀二女(優れた二人の女性)」「今之清紫(現在の清少納言と紫式部)」

ともてはやされます。

亀井塾で学んだ日田の神童、広瀬淡窓は後に

「西海の詩聖(西日本一の詩人)」

と呼ばれます。

自分も通り名とか好きです。

なんでこんなに中2心をくすぐるのでしょうか。

次回は今之清紫と呼ばれた亀井少琹、原菜頻について書いていきたいと思います。


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ijo katuki
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