イジメ、ヲスル。→イジメ、ニナル。 態様としてのイジメ問題
いじめヲスル、
いじめニナル。
イジメ“をする”という認識の他に、
イジメ“になる”という認識がこの国には欠けている。
1、イジメは許されざる「行為」だという幻想
やや誇張して書くが、イジメが「行為」だという認識は誤りである。
特に日本のイジメ問題の場合、こんな認識が蔓延っているからこそイジメ問題が頻発する事態に陥っているのである。
さらに言えば「イジメは許されざる“行為”だ」という認識は、イジメ問題を減らすどころか増やす働きがあるものである。
例えば
「他者を傷付けることは決して許されない“行為”だ」
というルールを設定したとする。
それは一見すると素晴らしいもののようにも思えるが、我々は図らずも他者を傷付けてしまう生き物である。
日々の暮らしの中で、相手と肩がぶつかってしまったり、誤って他者の足を踏んでしまったり、良かれと思ってしたアドバイスが酷い結果を招くことであったり。
とかく様々な場面で起こり得る衝突によって、故意ではなく“結果的に”相手を傷つけてしまうことも多い。
それにも拘らず「他者を傷付けることは決して許されない“行為”だ」としたならば、些細な失敗でも「許されざる“行為に及んだ者”」として扱うこととなり、厳しい咎めを受けなければいけないような世界が出来上がってしまう。
こういった“結果的に”“受動的に”起こる問題でさえも「行為」として捉える在り方が「イジメは許されざる“行為”だ」という発想に含まれてしまっている。
とどのつまり「イジメ“をする”」ものだという発想が、1つのミスをキッカケにして「失敗者叩き」→「“加害者”イジメ“になる”」のである。
2、イジメ「になる」ということ
「行為」としてのイジメの認識は、「加害者→被害者」という単調な構図でしかこの問題を捉えられないデメリットがある。
「態様」「状態」「関係性」としての認識があれば、「受動的加害者 ⇆ 能動的加害者」といった捉え方も可能となる。
要するに「加害者だったから(反撃)イジメに遭っている」というような構図が成り立つのである。
“加害者が”イジメに遭っている事例はネットでも比較的簡単に見つけられるものであるが、分かりやすいもので言えば、同じグループ内で加害者と被害者の入れ替わりが起き続けるようなパターンがある。
例えばどこにでもある友人関係の中で、ふとしたキッカケ、遊ぶ約束をすっぽかすなどで相手を傷付け、加害者と被害者に分かれるような事態を招いたとする。
「他者を傷付けることは決して許されない“行為”だ」とするならば、結果的にでも傷付けられた側は被害者Aとして、グループ内の加害者Bを「決して許すな」と他の仲間Cに訴えかけることに筋が通ってしまう。
ここで仲間Cが呼びかけに応じないことはルールに反することを意味しやすく、また加害者に味方することにもなりかねないため、結果的にAに従わざるを得ない状況が生まれてしまう。
しかしそれに従ったとしても、今度はその在り方が加害者Bへの仲間外れなどに繋がってしまうため、後々問題が発覚した際に、被害者Aも仲間Cも“加害者”として処理しなければいけない事態が生まれてしまう。
こうなると結果的にABCそれぞれが加害“態様”を満たすこととなり、その後に場を取り纏めることになるであろう教師や保護者たちは頭を抱える事態に陥るのである。
加害者全員を別室送りにしたところでそれは新たな火種になる可能性があるのだから。
イジメを能動的に「する」ものではなく受動的に「なる」ものだとして捉え直した場合、安直に「加害者を許すな」などとは言えない現実があることが分かる。
3、「行為」と「態様」それぞれへの対処のために
「行為」への対処は、文字通り直接的な「行為」に打って出た瞬間だけを捉えるような在り方をしており、それは良い意味で暴力行為を抑制する働きがある。
しかしその一方で「行為」としては捉え難い些細な嫌がらせの数々を見落としやすく、“被害者が”反撃に転じて相手に掴みかかるなどの「行為」に及んだ際に「それは許されざる“行為”だ」「相手と同じレベルに陥ってはいけない」などといった歯の浮くような台詞を吐き出すことに至りがちだ。
このような扱いに対しては、「助けてくれないんだったらせめて黙っとけよ!」が多くの被害者(加害者)の見解ではないだろうか。
もちろん直接的な暴力などはできる限り避けなければいけない問題ではあるが、「なぜ」加害行為に至ったのか、「どうして」そんなに激しい怒りを抱えてしまったのか、その経緯や背景などに注視することが非常に疎かになってしまう問題がある。
「態様」「状態」「関係性」「経緯」「背景」などを観ることが欠けていると、イジメに「なって」しまうということを見落とし、対処が後手に回り、結果的に甚大な被害へと至ってしまう可能性が出てくる。
そこに至るキッカケは、いわゆる被害者が加害“態様”を満たしてしまっている可能性も考えられるのである。
現場の秩序、「ルール」の中にこそ裏目に出る性質がある可能性を確認し続けなければいけない。
結びに
こうした複雑性を孕む問題に対処するためには、対処し続けていくためには、教育現場や家庭に対する支援が必要不可欠である。
しかし実際に現場に届けられるのは筋違いのクレーム「イジメは許されざる行為だ」ばかりであるように思える。
そしてリソースが揃わない状況で適切な対処をし続けることは、そもそも誰にも出来ないことなのだと被害者側も理解すべきだと私は思う。
少なくともイジメを「行為」だと思っている人間に、この問題に適切に対処できる者は誰一人として存在していないのではないだろうか。
問題は多くの人が正しいと思っているその考え方の中にこそ潜んでいる。
「行為」だけでなくその「態様」を見つめて。
イジメを「する」ものではなく「なる」もの、図らずも陥ってしまう問題なのだと理解することが求められている。
この国にはイジメ「になる」という別の観点から語られるアプローチがまだまだ足りていない。