仲間外れはイジメじゃない イジメは群れ理論’
イジメは群れ、イジメることは群がることだと考えた場合、
「仲間外れ」は必ずしも「イジメ」に該当する訳ではないという話。
1、仲間外れはイジメとは限らない
イジメ問題の一般的な認識において「仲間外れ」は、いわゆるの「加害行為」と見做すことも多いものである。
しかしイジメ=群れ、イジメることとは群がることだと考えた場合、「仲間外れ」にされているような状況は、必ずしも“イジメられている”とは言えない状態であることが見えてくる。
また“イジメ問題”とは“群れの問題”であり、人間関係の問題、齟齬によって起こるものだと考えた場合、衝突を避けるための距離感を保つためには「仲間外れ」を適度に用いた方がトラブルの抑制に繋がる可能性も見えてくる。
むしろ反対に「仲間外れ」を許容されない環境の方が“群れ”の内圧を下げられなくなる恐れが出てくるので、仲間同士の衝突も避けようがなくなることも容易に想像がつく。
それこそ例えば「加害者(的な存在)」が貴方の所属している群れの中に紛れ込んでしまった場合に、「仲間外れ」が許されないとしたら何が起こるのか、ということである。
2、加害者に対する仲間外れのケース
仲間外れを悪だと見做す人が見落としがちなのは、「加害者を」「加害的だからこそ」仲間外れにしている,されているようなケースである。
特に多くの加害者や加害的な存在に見られるのが他責的な特徴である。
彼らは事あるごとに他者を批判的な物言いで責め立て続け、いざ相手が被害を訴えたり不登校などに陥った際には「相手が悪い」「遊びのつもり」「自分はイジメなどしていない」などと謳い、自身の問題には無自覚である場合も多い。
こういった姿勢や態度が共に過ごす他者からの猛烈な嫌悪感情を生み出している可能性が考えられるのに、仲間外れが許されないとなると、それこそ被害者の方がその場から離れるしか道は無くなってしまうのである。
そうして自ら離れることを選んだ人が1人、また1人と周りからいなくなっていって、最後にはその加害的な存在だけが取り残される形に至る。
そして彼らが叫ぶことは「皆が私を仲間外れにした」という“イジメ被害”である場合も考えられるのだ。
果たしてそれは“イジメ”に遭ったことを意味しているのだろうか。
また加害的な存在への仲間外れすら認められない環境というのは、いわゆるイジメ被害者の方が別室登校などを余儀なくされる環境でもある。
トラブルが起きても仲間外れを許さない、一緒にいなくてはいけないということは、要するに「謝ったのだから許してあげなさい」と仲直りを強制される事態を招く土台になるのである。
合わない者同士、合わせられない者同士が連むと結果的に誰かが仲間外れになるようなことは避けられないものではないだろうか。
そのような状況では無理に間を取り持つようなことよりも、むしろきちんと袂を分けて、一度大きく距離を開けてからの再出発を目指さないと同じ過ちを繰り返す状態に陥ってしまう。
仲間外れからイジメ問題が始まってしまうのはマズいとしても、イジメ問題の終わりに群れから距離を取るのは自然な運びでもあるはずなのだ。
3、加害に該当する仲間外れとは
さりとて見境なく仲間外れを許容し過ぎるのも、より良い人間関係を構築するにはデメリットの方が多くなる問題がある。
もちろん理想は仲間外れやイジメ問題などが起こらないことなのだが、果たしてどういった仲間外れであれば加害と考えた方が良いのか。また加害とは受け取らない方が良い仲間外れとはどういったものが考えられるのか。
・内から外への仲間外れ
いわゆる一般的な仲間外れであり、既に友人関係が構築されているのにも拘らず、無理やり追い出すような扱いは非常に加害的な行いである。
しかしながら先に挙げた「加害的だからこその仲間外れ」もあり得る訳で、一概には言えない問題がある。
よってこれは加害とまでは言えないものとなる。
このような事態に陥った際には話し合いで関係修復を図りたいところであるが、それが出来ない状態が仲間外れであるため、誰か周りの人に仲介に入ってもらうことが理想的だろう。
もしも何か誤解が生じているならば時間を掛ければ解けていく可能性はあるだろうし、そもそも壊滅的に反りが合わない場合であるならば諦めて距離を取った方が良いように思う。
第三者とも良好な関係を築いておくことが吉であろう。
・外から内に入ることに対する仲間外れ
今度は反対に、外部から内部に入れなくするような仲間外れの場合はどうだろうか。
これは元々良い関係を築けていた場合とは別で、とりあえずチームを組んでは見たけれどあまり上手くいかなかったようなケースが考えられる。
恋人同士の関係性などで考えれば分かりやすいと思うが、お互いフリーだということでとりあえず試しにお付き合いを始めてみたは良いものの、イマイチ盛り上がりに欠けていたので別れを切り出したような状況を想定してみる。
この場合に仲間外れを悪だと謳ってしまうと、一方がもう別れたいと伝えているのにも拘らず、もう一方の拒絶によって関係性を維持する羽目に陥ってしまう問題が出てくる。
よってこちらも加害とまでは言えないものとなる。
さらに言うならば、ストーカー的な性質の発露が、仲間外れは悪という発想だということである。
合わなかったから離れた。合わなかったから距離を置いた。
それが許されない関係性というのは非常に暴力的だということであり、それゆえに仲間外れをそのままイジメ加害として扱ってしまうのは危険な兆候であると言える。
・結論
結論として、仲間外れでイジメ加害に該当すると言えるのは、公的な関係性においての仲間外れのみである。
私的な関係性における仲間外れに至っては、明確な加害とまでは言えない可能性があるため許されるべき在り方をしているということだ。
特に明確な理由があるならば許可すべきであり、また明確な理由がなくても(なんとなく嫌などであっても)許可されるべき在り方だと言える。
そうでなければ仲間であることを理由にしたその他のぞんざいな扱いを受け入れざるを得なくなるからである。
いわゆるノリを押し付けられて嫌な思いをした人も多いはずである。仲間外れが許されないのであれば、ノリを拒絶し距離を置くことすら難しくなってしまう問題がある。
適度な距離感を維持しておくためには仲間外れすら認められる環境が大切だということだ。
ただし仲間外れを許容することは公共の場にはそぐわない在り方でもあり、特に部活や勉学などの学内活動や会社での職務に必要な物事に際して仲間外れを用いることは許されるべきではない。
しかし権利として認められているのは必要最低限の触れ合いのみであって、それ以上は個人的な努力で超えていかなければいけない、ということである。
また相手の方が離れていくことも仲間外れとして捉えることが可能ではあるが、それも加害とまでは言えず、逆にそれを許さないという在り方こそが加害に相当していると捉えるべきである。
それでも誰かが仲間外れになることを悪だと謳うのであれば、ストーカーなどの諸問題から逃れる術を失ってしまうことになり得るので警戒を忘れずに。
結びに
もしも貴方の交友関係において、大した理由もなく仲間外れにしてくるような人がいたならば、そもそもそんな人と連もうとすることの異常性に目を向ける必要がある。
一緒にいても一緒にいなくても苦痛が伴う関係性を維持したいと願うのは、とどのつまり相手のことなど何一つ考えられない人間が陥る問題なのだから。
そんな在り方からの脱却ができなければ死ぬまでその関係性が続くだけの話である。
付かず離れず。距離感を大切にし、誰かを悪者呼ばわりし続ける自分自身の問題の方を仲間外れにせねばならない。
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