「イジメを無くす」ということ イジメは群れ理論
イジメは群れ、イジメることは群がること。
1、イジメ=群れが無い、とはどういう状態を指すのか
「イジメ=群れ」だとして考えた場合、イジメを無くすことやイジメが無い状態というのは、2つの方向性だけが成立し得るものである。
その1つは、群れの中での付き合いをゼロにするということ。
要するに人間関係の一切を持たないということを指す。
学校などで友人関係はおろか私語なども禁止するような方法を採用し、とかく誰とも関係を持たずに生活していくような在り方である。
いわゆる「孤独」「孤立」「ひきこもり」的な生存戦略と同じものである。
そして2つ目として、たった1つの群れ、たった1つの思想だけを共有して他を許さないような在り方である。
群れの0乗=1。
“自分達の他に”群れがないことを指して「イジメが無い」状態と称することができる。
それは多様性の否定を意味しており、イジメ問題のリスクを下げるために常に正義を掲げることが求められるスタンスを指す。
これはいわゆる全体主義のような在り方であり、常にイジメに立ち向かう姿勢を示さなければ、正義を全うしようとしない不義の者、あるいは正義に抗う悪として認識されかねない環境を作り出す。
“傍観者も同罪だ”というような意見も、不義の者を悪と同じ、と捉える発想があってのものである。
1、2、このどちらもが、昭和から平成,令和にかけて日本中を覆っていた“空気”と同じ性質を纏っている。極端にリスクを回避する在り方、リスクゼロの戦略は、どちらか一方に大きく傾く在り方でしか成立し得ない問題を抱えてしまう。
こういったイジメゼロの戦略こそが全体による個人へのイジメに繋がりかねない危険な発想となっているのである。
2、異端狩りの開始
イジメゼロを目指す際に、特に強い問題性を発揮してしまうのは、正義を掲げる人たちの存在である。
彼らはイジメという悪に立ち向かうことを名目に多少の加害的な在り方を目を瞑る性質を孕んでしまっている。
彼らがいわゆる「自分は良くて相手は悪い」といった発想に陥りがちなのは、「これは悪に立ち向かうための必要悪なのです」といった正義感の裏返しである。
それは我々が安心安全な暮らしを得るために必要不可欠な考え方であると共に、その一方で正義に則った働きができないような人、いわゆるノリ(則)が分からない人に厳しい視線を向けてしまうデメリットが存在しているのだ。
これが例えば発達障害(神経発達症)を抱えている人に対し、彼らが正義や秩序からズレてしまうたびに、それは良くない、正しくない、間違っている、頭がおかしい、などと否定的な意見を良かれと思って浴びせかけてしまう性質になり変わってしまう。
彼らがイジメに遭いやすいのは、彼らに正義を教えてあげよう,分からせてやろうといった“善意”の押し付けが一つの原動力になっている疑いがある。
全体が個人を潰す際にその背景にあるのは、悪というよりも むしろ正義にこそ問題が隠れているものである。
3、イジメ問題を受容せよ
とどのつまり、イジメを無くそうとすること、それ自体に加害性が含まれているということである。
それ故にイジメが無くなることを求めれば求めるほど、正義の力を強めれば強めるほどに、必ず誰かが加害者であると”認識され”排斥されやすい環境が整ってしまうことを意味している。
悪人がいれば集団が纏まりやすいことと、全体が寄って集って個人をイジメることは同じものなのである。
だからこそこの国では、イジメを無くそうとして、逆にイジメの話題に事欠かない現実を招き続けているのである。
なのでイジメを無くそうとするよりも、むしろイジメを増やすようなイメージで対策を考える方が望ましい結果が得られる可能性があると言える。
また「イジメ=群れ」が無いより有ることのメリットというのは、自分の所属する群れの内,仲間内でのトラブルが発生した際に、逃げ込むための別の「イジメ=群れ」が存在していることも意味している。
いわばバックアップ体制が整っているのと同義である。
反対に「イジメ=群れ」を根絶やしにしようとする発想は、皆が同一の価値観,思想に毒されているのと同じことなので、身近な人に嫌われる=全体からも嫌われる状態に陥りやすい問題がある。
なのでそんな環境では、一度でも周りに負の印象を与えてしまえば終わりなのだ。
こういった「イジメゼロ=群れゼロ」を目指す発想、正義に基づいた価値基準は、いわゆるスクールカーストのような関係構造を生み出し補強する作用も強い。
正義に準ずる能力が高い人ほど高い地位が約束され、不義や悪と見做された人は当然地面に這つくばることを余儀なくされる環境に至ってしまう。
なぜならば不義者や悪者は“加害者”なのだから。
まとめ
「イジメ=群れ」が無いということは、多様性を嫌い、単一の思想で全体を統制するということである。
またそれを嫌う者は、群れの中に留まることを許されず、群れに貢献しない個として、末席をあてがわれることになる。
これは現代の学校や会社などを始めとした“群れ”の集まりの中で、当たり前のように起き続けている「イジメ問題」と全く変わらない構造を宿している。
多様性に重きを置きすぎて“イジメ”が溢れすぎてしまうのも問題なのであるが、その一方で“イジメ”をゼロにしようと固執する世界にも闇は潜んでいるものである。