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イジメは群れ理論 なぜ「イジメ=群れ」だと言えるのか


1、なぜ「イジメ=群れ」だと言えるのか

前回の記事「イジメとは、群れである。」を補足するために、まずはこの問題を調べるに至った経緯から説明したいと思う。


元々は家庭にまつわる問題に興味があって、毒親や機能不全家族などについて調べていた。

そこでは例えば、祖父母に人格障害持ちの人がいて、それが親の精神を蝕み、結果的に孫レベルにまで悪影響をもたらしているようなケースが当たり前のように転がっている。

親が親の問題に振り回され続けることで、子供が安心して親に甘えられるような関係性の構築に失敗。小さいうちから親に迷惑は掛けられない、立派であることが求められてしまうような人間性が出来上がっていく。

そしてその“幼い立派さ”を抱えたまま学校生活などに順応しようとした場合、別の環境でのびのびと育った野生児タイプなどとの衝突が起きた際に、必ず我慢して一歩退いてしまうような行動を選びがちになってしまう。


本来ならば問題は相手方や両者に要因があって起こり得るものなのに、自らが先に否を認めてしまうことで、結果的に自分が加害者であると立候補するのと同じような作用を持たせてしまう。

例えばAとBの「互いの肩がぶつかった」という状況において、両者共に肩を「ぶつけられた」被害者性と、「ぶつけてしまった」加害者性の両方が成立し得る。いわば2人なのに4つの立場がそこに生まれている。そこでAが「自分“が”悪い」と加害者性の申告をしてしまうと、Aだけが加害者であるような印象をBに与えてしまっている可能性がある。

肩がぶつかるということ

そのため“加害者だから”隷属してしまうイジメ被害者と、“被害者だから”相手を粗雑に扱うことが許されるイジメ加害者の構図に陥りやすいのである。

加害の隠蔽
「親に(加害者であることを)言われたくなかったら」
見返りの要求
「パン買ってこいや」の関係性


家庭問題の影響で普段から我慢を強いられていたり反抗を許されない環境で育ってきてしまうと、一般社会で偶発的に起きる些細なトラブルをキッカケにしてイジメ問題へと発展してしまう場面が数多く見受けられるのである。


とどのつまりイジメ問題の爆心地は家族、家庭という群れの中にこそ存在している。家庭教育の段階で生じてしまった“認知の歪み”などが、学校などの一般社会の群れにおいてより大きな問題へと発展していくに過ぎないのだ。


こういったことが家庭問題から読み解けるイジメ問題の裏側の話。


子供の頃には分かり得なかった背景事情が見えて来たこと。それがイジメ問題に興味を持ったキッカケである。


しかしながら、改めて「イジメとは何か」と問うてみても明確な答えがわからなかったため、この問題を深掘りしてみるに至ったというわけだ。


0、そもそもイジメとは何だろう

書籍を当たれば大体の目星が付きそうな気がするものの、そういう習慣もない人間なので、とりあえず手近にあるネットに溢れる生の声を見て回ることにした。

SNSやブログ、あるいは学校や自治体が発行しているイジメにまつわる資料などを確認する中で、基本的に共通しているのは「イジメをするのは悪いことであって決して許されない行いだ」といった意見である。

さらにある人はそれを「決して許されない犯罪だ」と言い、またある人は「人の尊厳を踏みにじる恐ろしい行為だ」などと言う。


その多くが被害経験のある人からだと考えれば自然な発想と言えるものであるが、ここである一つの疑念が湧いてしまった。


この人たちは、
「“加害者であれば”平気でイジメてしまうのではないか」と。


−1、反イジメ主義者 イジメを悪だと謳う人たち

さらに調査を続ける中で、「加害者を決して許すな」「加害者には罰を与えるべきである」といったやや“前のめり”な意見も確認できた。


このような発想の人が多くいる環境で、もしも仮に、ワザとではなくとも彼らを傷付けるようなことをしでかせば、その矛先が対象者に向けられることになるのは自然な成り行きであると見当がつく。


そしてその矛を止める盾のような考え方があるとしたら、「たとえどんな理由があっても人を傷付けることはあってはならない」といったものが思い浮かぶのだが、その発想は「結果的に他者を傷付けた人」に対して適用されるのか、はたまた「傷付けられた仕返しに向かおうとしている人」に対してなのか、そこに明確な基準など存在していないことが分かってきた。

「どんな理由があっても人を傷付けるな」という教えは、良くも悪くも「加害者に対する加害=反撃も抑止してしまう」問題がある。


それゆえに余裕がある人間であればその矛を収めることも可能になるが、大きなストレスを抱えている人間であれば当然前のめりになりやすく、“加害者に対する加害”に至り、イジメ問題が肥大化していく方向に傾くのである。


加害者だからこそ正そうとする。
加害者だからこそ追い出そうとする。

そのようなジレンマが発生している状況で、彼らを止める術など基本的にあり得ないのである。


なぜならば彼らは、イジメ(加害者)を止めようとして加害的になっているからである。


したがって彼ら“反イジメ主義者”の在り方は、偶発的な事故による加害をキッカケにしてイジメ問題が発生してくることを示唆している。


「だってアイツが悪いんだよ」
“加害者たち”の言い訳の裏には、先に何かしらの被害を受けた可能性もあるのである。


−2、被害に遭う加害者(と見做された者たち)

イジメが決して許されない環境、反イジメ主義者が生み出す環境において、誤って他者の足でも踏んでしまったとしたら、その段階でもはや逃げ場がなくなってしまう問題が隠されている。


それが学校だけならばまだしも、例えば親までもが反イジメ主義者なのであれば、子供は助けを求める方向性を失ってしまうことを意味している。

なのでただ口をつぐんで我慢する他に方法はなく、やがて限界を迎えた段階で一縷の望みを持って周りの人に助けを求めようとするが、当然“加害者”を責める人しかいない環境なので絶望するに至るわけである。


その結果に何が待ち構えているのかはご想像にお任せするとして、イジメのみならず、何かを決して許さないという強い覚悟が、正義への熱い想いが、こういった「加害者に陥ったら終わり」「加害者と見做されてしまったら生きていけない」世界を作り出してしまう問題を抱えているのだ。


なぜ日本で陰湿なイジメが起こり得るのか、なぜクラス全体や教師からまでイジメられる事態が発生し得るのかといえば、多くの“被害者は加害者だと認識されてしまった可能性があった”ということである。


−3、正義を謳う人たちは悪へと群がる

反イジメ主義者以外にも、反権力、反差別、反〇〇などと謳う人たちは、こういった正義の負の側面を全く認識していない疑いがある。

彼らは常に悪者の話ばかりを繰り返しているが、彼ら自身が、悪者なら平気でイジメる人間性を持ち合わせていることに気が付いていない可能性があるということだ。




そして、そういった
「悪い者ならイジメかねない人たち」の
「悪に群がる」性質を抽出し、

悪だけではなく
「何か=Xに群がる」ことを
「Xをイジメる」ことと仮定。

そこからXを省くと、
「イジメる」
=「群がる」という言葉が残った。


要するに「群がる」ことが「イジメる」ことを指し示しているのであり、
動きのない「群がり」を指して、
我々は「イジメ」と称してきたのである。


「イジメ」とは何か。


それは
「群れ」
「人の群れ」
「人間」そのものが
「イジメ」の正体であると結論付けるに至ったのである。


−4、人が群がって起きるのがイジメ問題

「イジメ」とは「群れ」、
「人間」そのものだと置き換えた場合、
「イジメ問題」というものは、
「群れでの問題」
「人間関係の問題」
「人間関係の齟齬」
を指し示しているということである。


だからこそ「イジメ」の発生を見過ごしやすく、同じ環境を共にする人間同士や友人関係の拗れによってこの問題は肥大化していく性質を持っている。

そしていくら世間が「イジメは犯罪だ」とか「許されざる悪だ」といったことを訴えようとも効果的に働かず、また加害者が自分自身であったり親友相手であるケースなども考えれば、それは相談の芽すら毟り取ってしまう暴論であることが分かる。

もちろんそれらの意見が有益に働く場合もあり得るのだけれど、そういったケースほど既存の体制で既に駆逐されている可能性が高く、今になって声高に叫ぶ必要性は低いのである。

象徴的な事例にばかり気を取られた対策の組み立ては、常に悪手として働いている可能性すらあり得るということである。


−5、イジメを悪とすることの弊害

「イジメ」は「群れ」、「イジメる」ことは「群がる」ことだと置き換えてこの問題を見てみると、誰もが一度は耳にしたことのある「好きだからイジメちゃうのよ」といった意見とも整合性が取れることが分かる。

もちろんそれを許せと言いたいわけではない。


大事なのは、イジメ問題が始まる理由は悪意からとは限らないということである。


さらに言うならば、イジメを悪だと捉える発想は、群がって来た相手全てを悪人だと認識するのにも等しいものである。これは何かトラブルが起きた際に、まず「相手が悪い」と他責に傾く人間の考え方である。


あえて言うならば、そうやって衝突を起こすことで人間関係の学びに繋がる可能性も否定はしない。しかし閉鎖的な学校などの環境において他責から入るスタンスを取らせることは、それこそイジメ問題を頻発させるトリガーのような役割になり得るのである。

もちろん嫌がる相手との距離を無理に詰めようとするのは言語道断なのだが、必要以上に警戒感を高め過ぎる弊害についても学ぶ必要があると私は思う。


人が一箇所に群がり過ぎるような環境では、特に悪意などは無くとも足を踏んでしまうなどのトラブルは起こり得るわけだ。


その最たる例として、群集雪崩(群集事故)を挙げておく。

・どうすれば 群集雪崩を防げるか?
群集雪崩を防ぐために、一人ひとりにできることがあります。それは、“できるだけ移動せず、帰らない” こと。一人ひとりが、帰宅を避けて、職場や学校など、安全な場所にとどまることで、群集雪崩を防ぐことができるのです。そのためには職場に、災害時に数日間過ごせる備蓄があるか確認しておきましょう。

NHK防災

上記の対策をイジメ問題に適用するならば、学校に行こうとしない、といった発想こそが正解だろう。


イジメを悪だと見做す人たちに欠けているのは、いわゆるの“イジメ”の加害“行為”も始まりは、結果的に,受動的に起きている可能性があるということである。


そして既存の方法論の多くは「イジメ=群れ」を「やる」、能動的にやっているもの、「行為」として想定されている傾向が強い。


大事なのは「結果的な加害」が「イジメ問題」に「なる」ということ。
距離感を近づけ過ぎたため足を踏んでしまった、踏まれてしまった、そんなケースの想定である。


それを悪と見做すということは、人間関係の構築が下手な人ほど、否定され(正され)、邪魔され(止められ)、追い出される(無くされる)環境を整備することを意味してしまっているのだ。


要するに、陰湿と言われて久しいイジメ問題の背景にはいつも、「イジメは悪」であるという前提で作られた正義の土台があったのである。


まとめ

なぜ「イジメ=群れ」だと言えるのか。

それは悪に立ち向かうためや、不安から逃れようとして、人が群れになりやすい性質があるということ。

また悪以外にも興味対象があれば人は群がる性質があるということ。

そこから逆算することで、単なる人と人との交わりが問題へと繋がっていることを導き出せるからである。


またイジメ問題が発生しやすい環境とは、正義で問題を押し退けようとしている環境であり、衝突を避けるための仕組み作りや構造への理解が拙い環境である。

距離感を無視したイジメ対策というものは、逆説的にイジメ問題を頻発させる危険性が高いので注意されたし。


この問題を正義や善悪といった閉じた指標から解放し、構造や認識の誤りによって起き得る現象だと理解されるにはまだ時間が足りないように思う。

それまではどうか自分なりの行動を通じて変化し離れていく努力をすることをお勧めしておく。

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