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イジりがイジメ加害にならないための線引きについて イジメとお笑いの大して面白くもない話

気持ちが悪いと困るのだ。

1、「相手が辛いと思ったらイジメ」の問題点

一般的なイジメ対応の在り方、イジメであるか否かを判断する基準として、

「やられている側が辛いと思ったらイジメ」
「被害者の気持ちを第一に考えるように」

といったスタンスを推奨している教育現場は多いものである。


教育業界も客商売だと考えるのであればそれも有りなのかもしれないが、この在り方は「人の気持ち」という曖昧で主観的な認識を土台にしてしまっているため、著しく客観性を欠いた結論を導き出してしまう欠陥がある。


もちろん受け手の気持ちを蔑ろにして良いという訳ではないのだが、第三者から見ると大変に都合の良い捉え方が跋扈してしまう性質を孕んでいるのである。


要はクレーマー(請求者)ほど得をするような世界がそこに生まれるのである。


これは良い意味で自己主張をする訓練になり得るのだが、悪い意味では声の大きい人が他者の主張を叩き潰すような性質でもあるため、結局は多数派や力の強い存在が幅を利かせてしまう事態を招くことになる。


特に“コミュニケーション”において重要になるのは相手との交流を図ることであり、相手の主張“”聞き入れてこそ初めて対話と呼べるものになるのだから、「人(自分)の気持ち」にばかり重きを置いて自己主張ばかりを繰り返すようになってしまっては他者との断絶は免れない。


時に対話は“キャッチボール”に喩えられるものだが、投げる側は受ける側の能力に合わせたボールを放るように心がけ、受ける側もなるべくそれを上手くキャッチするように心掛けることが重要である。


そしてそこで大事になるのは、たとえ受け手側が“突き指”したからといって、出し手側に何か落ち度があったとは限らないという観点である。


もしも“被害者”の気持ち,“受け止め方”だけに重きを置いて、全面的に信頼してしまうとどうなるのかと言えば、“被害者”が“加害者”に突き指“させられた”というイジメ問題が創出されてしまうことになり得るのだ。


いわゆる加害者の言い訳「遊びのつもりだった」というような意見の裏には、単なる被害者の独り相撲である場合“もあり得る”のである。


2、気持ちという不確かな線引き

結局のところ「やられた側の気持ち」に重きを置いて対策を組み立ててしまうことは、当事者の苦痛をイジメ(加害)とも捉えることができるし、遊びの中で起きる自然な衝突とも捉えることが可能になるといった、ある種の二面性を含んだ制度設計に至ってしまう問題がある。


特にこの前提があると、好意的な印象を抱いている相手ほどイジメ加害ではないと捉えやすく、元々が親しい関係であればあるほど問題が深刻化していってしまうリスクを抱えている。

逆に嫌悪感などを抱いている相手からであれば、簡単に加害と捉えやすくなる性質が現れてしまうので、あまりにも些細な問題であってもイジメ問題として処理せざるを得ない体制が生まれてしまうのである。


またこの前提をイジメ以外の問題に適用した場合、大恋愛から結婚にまで至ったカップルがその後に壮絶な離婚劇に至るようなパターンも、認識の二面性,二重性が成り立つからだと考えれば自然な運びであることが分かる。

熱が冷めることで味の“感じ方”が変わるのだから。


辛い人の気持ちを優先させようとすることが、返って当事者同士や第三者による解釈に差分に繋がってしまい、結果的により多くのトラブルを生んでしまう事態を招いてしまっているのである。

tips:イジメ防止対策推進法や自治体のイジメ防止対策において教師を始めとした現場の監督者は、被害を訴える人の気持ちに寄り添うことが求められるため、当記事の意見は参考程度に留める必要がある。


3、ではどういう線引きなら有効なのか

「これはイジメである」 or 「これは遊びである」

このどちらとも捉えられる曖昧さを回避するためには、「やられる側の気持ち」などという目に見えない前提を敷くのではなく、目に見える「行動」をイジメの判断基準に据えることをお勧めしておく。


その行動とは「反撃」があるかどうかである。


別の言い方をすれば「反応」の有無であり、いわゆるリアクションがあったかどうかでイジメか否かを判断するということである。

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