イーズカの資本主義理解

 大学時代にマルクスの『資本論』(特に第一巻)は3回ほど読んでいる。授業ではなく、友人や先輩との読書会を繰り返していた。輪番で読み込んで、毎週発表と論評を交代で進めていく。
 冒頭の「リンネル1ヤールが、5ポンド25シリングで~」と何十ページもつづくところで、大体の学生は諦めてしまう。しかし、その後の労働価値説は非常にオモシロイ。
 要は「安く買って、高く売る」だけでは、「富は発生しない」ことを立証している。

 冒頭のウンザリする部分は、新約聖書の冒頭に似ている。「聖ヨハネはイサクの子~」と延々と繰り返される人間関係図にくたびれ果てる。
 イーズカは高校時代に、クリスチャンの女性にアプローチしようとして必死に読んだが理解できずに、飛ばし読みした。

 聖書の話はともかく、資本論の世界は資本主義解説としては秀逸であった。大学卒業後も経済書をいろいろと読んでいたが、資本主義は弱肉強食なだけでなく、合理的なシステムだと思った。

 資本主義はどうしても「富と人材が偏在」してしまう。「資本の自己運動」が働き、富めるモノに富が集中する。
 自分で創業して財を成した老人を想定してほしい。そのプロセスには壮絶な戦いがあり、老人はもう自分のカラダとアタマでは、新たな展開に入れない。

 そこで、「カネは無いが、アイデアに溢れている若者に投資」する。若者は自分では「資本の原始蓄積」が出来ないので、老人の投資したカネで事業化し、そこから産み出された利益から配当金を払い、老人に還元する。
 これはカネと世代が、新陳代謝していく画期的な流れだ、と思っていた。

 しかし、こんな理想的なカタチで物事は進まない。老人たちは、自らにイノベーション能力が無いことを覆い隠すために、政治にも関与を始め、不合理な障壁をバラ蒔いていく。

 今回のオリンピック日本組織委員会の森辞任、川渕の後継就任を見ていて、「老人が痴呆化し、新参者を排除する」泥沼劇を思い知らされた。
 女性差別発言で火を噴いたのに、後継者を女性にすることすらできない。日本社会は世界から見たら「終わってしまった社会」である。スガの「学術会議への任命拒否」も、科学を捨て去り、権力者に隷属する「末期的な社会」と見られている。

 アベ・スガと続いた自民党政権は、権力の独占と既得権益の私物化を、恥じることなく突き進んでいる。
 森友学園・加計学園・さくらを見る会、学術会議にコロナ対策の迷走、など「政治の腐敗」「ビジョンの喪失」以外のナニモノでもない。
 こんな奴等に権力を預けていたら、これまでの蓄積を収奪されてオシマイである。

 政治家など「40歳定年制」を敷くべきだと思う。政治には「将来へのビジョン」と「新陳代謝の促進」が求められている。
 老人が真っ先に追放される世界である。「想像力無き者は、去れ」が大原則だ。

 現在の日本は、老人が寄生し、若い勢力の活躍を阻止する社会で、企業のイノベーションまで踏み潰している。

 衰退して当然である。政界も財界も「老人追放令」を出さないかぎり、日本経済の復活などあり得ない。

 「マジメにやろうぜ、資本主義」である。


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