イーズカの「市民運動派」嫌い

 イーズカは18歳で上京する時に、「大学は学生運動をやる場所だ」と思っていた。時すでに遅く、連合赤軍・あさま山荘事件の後、社会からは学生運動を擁護する動きは消滅していった。

 しかし1976年に慶応大学に入学して1か月も経たないうちに文学部自治会委員長となった。その年は経済学部、商学部、政治学科と組織作りに励み、教養部日吉全体を代表する日吉自治会を名乗れるまでになった。

 イーズカも当初は戦後民主主義を絵にかいたような良心派だった。
 しかし慶応など大衆運動とは無縁な「ノンポリ・お坊ちゃんお嬢ちゃん大学」である。
 右翼などというゴツイ連中は居なかったが、大多数が「秩序派」である。
 そんな大学で学生運動をしていると、あっという間に先鋭化する。暴力で脅さないと、物事が動かないのである。

 クラス委員を選出するクラス入りでも、執行部の顔が知れたメンバーが教壇に立ち、教室後部にはヘルメットにマスク、竹竿で軽武装したゲバルト部隊を入れて、逆らう奴は即座につまみ出してリンチにかけていた。
 一般学生にそんな仕打ちをしていたので、市民運動派のサークルは容赦なく弾圧していた。

 エコロジー研究会など良い「餌食」であった。基本的に甘っちょろい学生しかいない。
 コチラはゲバルト部隊を有する組織なので、ゲバルト要員のリクルートが欠かせない。
 その用件で、もっとも邪魔なのが市民運動派であった。「オマエラのような中途半端な運動があるお陰で、ゲバルト要員の補充が進まない」と日常的に叩きのめしていた。

 「反原発などチャンチャラ可笑しい。原発などエネルギー戦略の中核を担っている。なおかつ核兵器製造にとって最重要なプルトニウム供給も引き受けている。市民運動ごときが難癖つけて、相手が考えを改める訳が無いだろう。国家権力を打ち倒し、権力者を皆殺しにして、その首を広場に晒さない限り、原発など廃棄できない。」
 と、エコ研あたりを許さなかった。

 「今後、俺たちの前でエラそうな口をきくな」と学外に放逐した。
 原発は世界戦略にも組み込まれており、アメリカの植民地に過ぎない日本なんぞに、その成否を選択できる権限など無い。アメリカと戦争する覚悟が無ければ、何を叫んでも「絵にかいた餅」である。

 イーズカも原発には大反対だが、市民運動でナントカなるような相手ではない。間違いなく「冷酷な暴力によってしか倒せない案件」である。

 よって市民運動派の「反原発」など、趣味のサークルとしか思っていない。


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