アフリカでのボランティアの難しさ(世界一周旅行記 ケニア ルシンガ島)
今までボランティアとして訪問した先は世界19ヶ所。2000人以上の子どもたち、そしてその先生方と関わった。
ネパールやレバノンでもボランティアとしての立ち位置の難しさを感じていたけれど、アフリカに来て、より一層その難しさを感じる。
月に1度のご馳走の鶏肉
今回の訪問先の周りには生徒の家があり、夕方湖に行けば生徒たちに会い、一緒に泳いだのは素敵なひとときだった。週末は生徒の家に招待されて昼食をご馳走になったこともあった。
招待されて出てきた鶏肉は生徒にとっては1ヶ月に一回のご馳走。子どもが外国人のボランティアが来たら、親は家にいる大切な鶏を犠牲にし、ご馳走を作ることになる。
ボランティアにとっては鶏肉を食べることはなんて事のないごく普通の行為だが、地元の貧しい家庭にとっては自分たちの大切な資源を使ってボランティアをもてなす、というかそうせざるを得ない。
そうやって、ボランティアのちょっとした満足が、地元の人を苦しめる事になる。
強者・弱者関係の強化する help という言葉の使い方
ケニアに来てから、子どもたちに “Can you help me?” と聞かれることが多い。何か助けが必要なのかと思い、 “What happned?” と聞き返すと、”Mr. Nao, can you help me with a ball?” のように再度尋ねてくる。
「はて、help 人 with モノってどんな意味だっけ?」
と少し考えたが、文脈的に彼らはボールが欲しいのだとわかった。
なるほど、ケニアの子どもたちはgiveの代わりにhelpを使い、「自分にそれを分けて欲しい、自分がそれを欲しい」とお願いをするのだ。
確かに「help 人 with モノ」には「人にモノを施す、援助する」という意味はあるが、giveの使い方とは少し違う。helpは「助ける(援助する)側」と「助けられる(援助される)側」に力関係が生まれる言葉だ。彼らはそれをごく当たり前のようにgiveの代わりに使う。植民地時代の名残なのかもしれない。植民地政策をとったイギリスに大きな責任がある。
ケニアの人たちにあえて厳しく言えば、彼らがhelpをgiveの代わりに使い続けることで、「自分たちがhelpが必要な人」からの立場から脱することは難しいように感じる。
ただ与える人にならないために
もっと言えば、「与える・与えられる」の関係でさえも考える必要がある。今回は他の国からのボランティアと一緒に滞在することも多く、彼らの行動から考えさせられる場面が多くあった。
例えば、ボランティアがコーラやジュースを現地の子どもたちに買い与えるとする。すると、子どもたちは次来るボランティアにもそういったことを期待してしまう。
実際、一緒に滞在しているボランティアが、街でボールや文房具を買ってきて学校の子どもたちや先生方に寄付をした。すると、ある先生は僕を見て「あなたは何も寄付してくれないじゃない」と迫ってきた。
彼女は僕が何も寄付をしないことになぜ疑問を思ったのだろう。
一方的に常に与えられる人たちは、誰かに何かをしてもらうことに慣れてしまう。自分で努力して何かを掴み取ることをしなくなってしまう。
何かをあげて現地の人が喜んでくれたから良いのだろうか。そのような自己満足によって、結果的に子どもたちや現地の人々を苦しめる事になっていないだろうか。
では、どうしたらいいのだろう。
アフリカの滞在先はどこも子どもたちとの距離が近いからこそ、「与える・与えられる」関係を作らないようにしなければいけない。気をつけていても自然と「力関係」や「与える・与えられる関係」は生まれてしまう。だからこそ、ただただ一緒に遊ぶ、一緒に食べる、一緒に何かを作るような「共働する人」を目指すことが一つだろう。
もう一つは、彼らに「目に見えるモノ」を与えるのではなく、学びの楽しさを感じさせたり、世界の話をする中で彼らの夢が広がる経験をさせたり、彼らの日々の生活が少しでも輝くような瞬間を作ることを目指すことが、僕が今現在で考える解決策だ。
みなさんはどう思いますか?
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