第七十二話 Words on wire
娘を保育園に送っていく。私の日課だ。
今日は週末の朝にしては珍しくぐずることもなく、娘も早く起きてきた。台風一過で空も晴れわたっている。こんな気持ちの好い天気の日は、幹線道路を自動車が繁く走り回る前に出掛けるに限る。
ということでいつもより三十分近く早く家を出た。
みんな考えることは同じなのか、早い時間にも拘わらず保育園はもう子どもたちの歓声で沸き返っていた。
娘を保育園に預けてしまうと、時間はたっぷりある。出社前に英気を養おうと外階段を昇って保育園の屋上に出た。いつになく空の蒼さが濃く感じられる。初秋の朝の蒼空は心を健やかに開放してくれる。
空を眺めていると、小さな綿雲が西から一列に並ぶ高圧電線を横切っていった。高圧電線の伸びてゆく先にはわが家がある。女房はまだお化粧の最中なのだろう。電線を支える鉄塔は行儀よく並び、互いに手を繋ぐ人間のように見える。
「さあ、一日の始まりだ」
その日、やっと仕事を終えて家に帰ると、娘は女房と一緒に既に夕飯を済ませてプラレールで遊んでいた。急いで夕飯を済ますと、洗濯物を畳む女房に代って娘とプラレールで遊ぶことにした。
六畳の和室いっぱいに敷いたレールの上を新幹線や蒸気機関車、貨物列車などがトコトコと走る。今年中学校に入学した甥から譲り受けたパーツや車両もあって、無理をして繋いだ箇所も少なからずある。そのためプラレールは所々で線路が外れることや途中で停まってしまうことがよく起きた。
「なかなかうまく走ってくれないねぇ」と声をかけると、娘は「電線を敷いてないからすぐに停まるの」と呟いた。
プラレールは配線なしでどこでも簡単に組み立てて走らせることができる。電線に該当するものなど最初から無いのに妙なことを言うものだ。
「本物の電車は電線が要るけど、プラレールは電池で走るから要らないんだよ」と話しかけた。娘はきょとんとした顔をして、「ううん、そうじゃないの。うちのは最初電線があったけど、秘密を聞かれちゃうから止めにしたの」と言った。「電線から暗号が流れてきて、電車の中のお話はみんな聞かれてしまうの。うちのお話も電線を通じてみんな聞かれてしまうから、パパも気を付けてね」と言う。
私は「そうだね、大事なお話は小さい声でしようね」と応えておいた。
どうやら娘にとっては電車を動かす架線も家に引き込んでいる電線も、盗聴の道具として映っているようだ。
翌日、夕食どき、女房から「家のローンの切り替えのことで大事なお話があるんだけど・・・」と話しかけられた。
すると娘は「しっ、大事なお話は電線を切ってからしないとみんな聞かれちゃうよ」と人差し指を口に当てて言った。
女房は唐突なことを娘が言い出したので、何のことかわからずに爆笑した。娘は自分の言ったことが笑われたので、むすっとむくれてしまった。
そのときは娘の言うことを真に受けなかった私も、繰り返し聞かされているうちに、あながち空想の産物だとばかりいえないのではないかと思うようになってきた。
電線はほとんどすべての家庭に届いている。その先に盗聴器のようなものが据えられているとしたら、誰が何を言っているのか筒抜けになってしまう。今は盗聴用の機器もチップ程度に小さくなっている。各世帯、各人が話していることが一手に入手できたら、ビッグデータとして活用もできれば、治安対策にこれほど重宝する情報もあるまい。
それにしてもわが家の上を通る高圧電線。あれだけの太さがあれば、家庭に引き込まれている電線などから相当な量の情報が集められるに違いない。その証拠に、風のない日でもヒューヒューと奇妙な唸り声を発して、情報収集に勤しんでいるようだ。
「馬鹿々々しい、妄想もいいところだ。電線の風切り音が盗聴に関係しているなんて陰謀論に侵されているんじゃないか」
確かに、そうおっしゃるのも御尤もだ。私だって簡単に陰謀論に取り込まれたわけではない。奇妙なことに気づいたのは会社に向かう電車の中でのことだった。その日は早出だったので、電車は空いていた。座席に腰を降ろして、携帯電話をチェックしていた。
すると向かいの席に座っている二人組の中年の男たちが、「最近の親にも困ったものだね。子どもの関心を買おうとプラレールを惜しげもなく与えている。それだけでは飽き足らなくて、大の大人が子どもと一緒にプラレールに興じる始末だ。世も末だ」としきりに頷き合いながら話している。
「待てよ、それって我が家の話ではないか。何故この男たちは我が家の犬の事情について事細かに知っているのだろう。しかし偶然ということだってある。ましてプラレールなどは何処でも手に入る如何にも子どもの喜びそうな玩具だ。買い与える親も多いだろうから、親だって一緒になって遊ぶことだってあるだろう。偶然の一致だろう」そのときはそれ以上深く考えようともしなかった。
そんなことがいくつか続いて、その符合が偶然ではないことが判明することが起きた。
家に帰る道すがら、買い物帰りらしい主婦が三人集まって話し込んでいた。脇を抜けるときにこんな会話が耳に入ってきた。
「子どもの入園祝いに一家三人で旅行にいったんですって。なんでも石垣島のゴージャスなリゾートホテルに三泊して、シーサー造りを体験したそうよ」
一番若そうな女がチラチラこちらに視線を送りながら話していた。
「うん? それはこの間のゴールデンウイークに家族で行った沖縄旅行のことじゃないのか。しかし、沖縄に旅行にいくことくらいごく普通だ。沖縄にいったらシーサー造りで時間をつぶすのもお定まりのコースかも知れない」
その頃からだったと思う。私は、いつも誰かに監視されている気がするようになった。私の一挙手一投足が見張られている。すべてが筒抜けだ。道ですれ違う見も知らぬ人がぶつぶつ私の噂話をしている。遠くからひそひそと私のことを話題にしている。
我が家の細々としたことがすっかり外に漏れてしまっていた。
「こいつは迂闊なことは言えないな。だが、何時までも遣られっ放しではいられない。攻撃は最大の防御と云うことでもあるし・・・」
送電線の唸り声を聞くたびに、その想いは強まっていった。
晩秋の空はどこまでも高く、晴れ渡っていた。遂に、娘と私の疑念を晴らす日がやってきた。
その週の日曜日、私は河川敷に建てられた高圧線を支える鉄塔に向かった。もちろん、高圧電線に耳を着けて、盗聴の中身を探るためである。
周囲に人気のないのを確かめて鉄塔に足を掛け、おもむろに昇り始めた。昇るにつれて風が強くなってくる。地上では想像のできない強さだ。三分の二ほど昇ってふと下を眺めた。持ってきたザックが芥子粒のように小さく見える。その瞬間、自分が高所恐怖症であることが蘇ってきた。この高さは最も恐怖が募る高さである。「みんな聞かれちゃうよ」と言った娘の声を反芻しながら、なおも上を目指した。もう高圧電線は手を伸ばせば届きそうな所まで来た。
「もう一息だ」
間近に現われた高圧電線は風になぶられてビュンビュンと風切り音をたてている。
「もう少しだ」
乳白色の碍子は秋の終わりの陽光を反射し、鈍い光沢を湛えている。私は高圧電線にそっと耳を押し付けた。
その瞬間、世界中の秘密が一挙に私の頭に流れ込んでくるような衝撃を感じた。
「やはりそうだったのか!」
台風が連れてきた蒼穹は私の頭の上でまんじりともせずに広がっていた。
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