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第四十三話 愛と命の循環


「また雨か・・・」
湿気を含んだ小雨混じりの風だけが勢いを集め、鳴きながら街路を吹き渡っている。
月曜の朝、それも月の始めの・・・。
気怠い気分を引き摺ったまま週が明け、懶惰な一日が始まろうとしている。凡庸な一週間、冗長な一月の幕開けだ。おまけに外は雨の気配。半覚めの頭で様子を探ると、夜来の篠突く雨は東の空が白む頃には霧雨に、そして出勤する刻には粉糠雨へと雨脚を落としていた。ガラス窓越しに見上げると、錆びたブリキ板を敷き詰めた鈍色の空が鉛と化した鈍重な雲を西から東へと流している。
「渋谷か・・・」
重い腰を上げるついでに愚痴が口を衝いた。
これから雨の中を取引先まで出向かなくてはならない。
ビルが描く直線によって矩形に切り取られた空。街路を舞う騒音。寡黙に待ち続ける会社。駅から伸びる地下街。眼をつぶっていても辿り着ける見慣れた道行。敷設されたレールの上を寡黙な時間が黙々と走り続ける。その路傍で人知れず、小さく軋む音。
通勤電車の窓から見える、昨日が今日を呑み込み、今日が明日を吐き出す、何ひとつ代わり映えしないリフレイン。
都心のターミナル駅は不愛想な朝を迎えていた。咬み殺した欠伸、人目を避ける視線、聳える肩、励ますように運ぶ足取り。今日も街を行き交う人々の足元から地下鉄の蠢く振動が伝わってくる。郊外への起点として開設されたこの駅には、幾つもの地下鉄や私鉄が乗り合わせている。そのため乗降客が集中し、通勤時間帯にはホームからぼろぼろと人がこぼれ落ちんばかりだ。人混みを掻き分け急いで改札を抜けて階段を降りると、プラットフォームは既に立錐の余地も無いほどに混雑している。
一息吐く間も無く耳をつんざく金属音が遠くから届いた。神経を無理やり逆なでされ、振り向かされる。視線の先には音の先には円形に穿たれた黒く長い穴。そこから射出された神経質な軋み音が次第に形を成して近づいてくる。虚ろに響く金属の嬌声。轟音とともに電車が乗客の前へと大仰に登壇する。そのたびに地下鉄のプラットフォームに滞留していた空気は、身体を吹き抜ける疾風となって地下街へと勢いよく押し出される。
一仕事終え、会社に向かう。待ち構えているのは、駅から長く伸びた、アンモニア臭の籠る地下街。湿った空気が纏わりつく。後を追ってくる臭気。雨の日にはいつもより臭いが強く、長く漂っている。その出口に隣接した古いビル。むやみに長い階段。重力が掛ける足払い。街角の風景にすっかり溶け込んでしまった書き割りのような佇まい。
高度成長期に建てられたこのビルは、天井が低く、柱や壁が過剰にスペースを取り、足を踏み入れるとどことなく懐かしさと共に圧迫感を感じさせる。集積した時間が頭上から伸し掛かって来る。身震いをして振り仰ぐと、三階の外壁に「共立広告社」と明朝体の太い書体で社名が書かれた看板が架かっている。
私が勤める会社だ。
一階は、このビルに出入りする人間と近隣のオフィスに勤めるビジネスマンだけが利用する、曰くありげな古びた喫茶店が入っている。会社勤めとはいえ自由業に近いカメラマンの私としては、安い給料と引き換えに、何かと勤務時間の融通は利かせてもらっている。勿論、暗黙の裡にだが・・・。勤め始めた当初は午前中から律儀に出社していたが、次第にズルズルと遅くなり、今では昼飯を済ませてからの出社が当たり前になってしまっている。
路上の雨は何時の間にか煙霧と見紛うほどに細かくなっていた。ただ相変わらず風だけが私の面前で我が物顔に吹き荒れていた。
地下街を抜け、地上の出口に立つと、風が近くの風景を歪ませていた。私は迷わず、路傍に佇む喫茶店に飛び込んだ。
「マイアミ」と几帳面な明朝体で店名が書かれたコーヒー会社提供の電飾看板。陽に焼けて脱色した帆布地のブラインド。嘗ては鮮明な赤だったのだろうか、これもまた草臥れたベージュに近い色へと褪色している庇。隣のビルと接する壁は奥まで小蔭になっていて、所々夜来の雨が作った黒黴のような滲みが斑の帯を為している。
冴えない外見の喫茶店だが、実はこれがちょっと見過ごせない店なのだ。歴代マスターの気の置けない接客がファンとまで言える固定客を掴んでいる。
現在のマスターは三代目だ。先々代は高度成長期に名の知れた大学を出たものの就職もせず、親の所有していたこのビルの一階にコーヒーショップを出した。厳選した生豆を店内で自家焙煎するスタイルがその当時としては珍しかったのか、近隣の大学関係者の間で評判になり、繁盛した。だが、親の鶴の一声で家業の貸しビル業に専念させられることになった。後ろ髪惹かれる想いだったが、幸い道楽三昧で育った息子が快く跡を継いでくれた。羨むほどの繁盛はしなかったのだが、商売っ気の無い息子は一向に気に病む様子はなかった。飽きがきていたこともあったのだろう。十年近く前、客の注文が殺到した折に取り違えることが起きた。若年性のアルツハイマー症が兆したのだ。それ程頻繁に錯誤が生じたわけではなかった。だがその時、ふと、後を継ぐ係累もいなかったこの店もそろそろかと思案した。その話を小耳に挟んだ友人の伝手で、巡り巡って現在のマスターが後釜として入った。何でも福島で被災して天涯孤独になったのだとか、放浪の果てに学生時代を過ごした東京に流れてきたとか・・・。
先代からこの店を受け継ぐときに、コーヒーの淹れ方と味に関しては強く要望されていた。生豆で仕入れて、店内でロースティングして出すので、アラビカでもロブスターでも、どの銘柄も香りが高い。それをネルドリップで淹れてくれる。それだけでも十分なのに、カップもノリタケで統一し、ちょっとでも縁の欠けたものは出さない。音楽もレアなロックを聴かせる。現在の店長はそれも躊躇なく踏襲した。
たまたま早く出社しても、昼近くに出てきても、直行で出向いた帰りにも、ここでモーニングセットを頼むのが私の日課になってしまっている。変化がないと言えばそれまでだが、ルーティーンを崩すと何となく収まりが悪い。
店内に滞留した時間が何処となく落ち着かせてくれる。マスターは注文をとりにくることもない。煩く店内に視線を投げかけることもしない。私に限らずどの客が何を注文するのか、ほぼ了解している。客の殆どが顔馴染とあっては・・・、それにメニューにバリエーションがあるわけでもないのだ。
「アメブラ四百五十?」
「ええ」
いつもの簡潔な遣り取りがマスターと私との間で交わされた。
「アメブラ」と云うのは「コーヒーのアメリカンをブラック」で、「四百五十」とは「バタートースト付きの四百五十円のセット」のことだ。
「アメブラ六百」というのもある。これは「アメリカンのブラックにスクランブルエッグ付きの六百円のトーストセット」だ。
「今日は直行ですか」
ネルのドリップ袋をサーバーの上にセットしながらマスターが声を掛けてきた。
まだ起動していない頭が返す。
「うん、渋谷の制作会社で打合せ」
返事をしながら私はテーブルの下に身を屈め、足元のマガジンラックの中から写真雑誌を手に取って何気なくパラパラとめくった。駅前の大通りから、車の行き交う音が遠く近く、窓越しに聞こえている。
マスターは車のがなる音に消え入りそうな声で話を続けた。
「井沢さん、格闘技はお好きですか」
昨夜の深酒がまだ頭の隅っこに残っている。気の利いた返事のひとつもしようかと思ったのだが、生憎何も浮かんでこない。
「いや、好きって程じゃないけど、話題に上る選手の試合を偶にテレビで観るくらいかな。昔はタイトルマッチって云うと欠かさず観ていたんだけどね。でも、昨日のマニー・パッキャオの試合は観たよ」
言いながら、昨晩の深酒を慙愧の念に駆られながら想い返した。観戦序にジャックダニエルをちびちびやり、結局ボトルを半分近く空けてしまったのだ。
実のところ、私は子供の頃から父親の影響でボクシングはよく観ていた。しかし、最近のボクシング界の状況には興味を失っていた。プロモーターが興行に箔をつけるために階級を増やしてチャンピオンを粗製乱造している。勢いタイトルマッチとは名のみの、興醒めの試合が多くなってしまっている。観ると腹の立つ凡戦ばかりなので、長らく試合を観るのは遠ざかっていたのだ。しかしその中でもマニー・パッキャオの試合だけは欠かさず観ていた。
「世の中には凄い選手が居るものだ」
初めて観たパッキャオの試合。リング上で相手選手とグローブを交わした瞬間に懐いた感想だった。
パッキャオの視線は相手の先を睨んでいた。視線の先に、これから自分が演じる狩猟ドラマの主人公としてどのように獲物を捕殺するのか、そのイメージを浮かべているようだった。そしてレフリーの声にひとつ頷くと、シューズをキュッとひと声鳴らし、ゴングの音と共に勇躍狩に赴く。「稲妻に撃たれたような」とはこんなときのことを言うのだろう。
パッキャオはどんな戦績の相手が来ようと、どれだけ体格差があろうと、外連味の無い打ち合いに持ち込む。そしてハラハラドキドキさせながらも、ゴングが鳴り終わった後にはリング上で、ドラマの主人公としてパッキャオが威光を放って居る。どんなに不利な条件下でも、相手を上回るボクシングを見せてくれる凄さは、確かに稀有な存在だった。しかしそれ以上に、「パッキャオが相手だ」と意気込んでくる相手の良さを十全に引き出しながらも、最終的に仕留める野獣の強かさは誰にも真似ができない彼独自のものだ。狩猟が遊びでは無いように、パッキャオの試合は常に血生臭い臭いを放散させ、スリリングだ。
「そうですか。マニー・パッキャオの昨日の試合、私も観ましたよ。名優が一編のドラマを演じているような展開でしたね。相手も結構好いファイトしましたよね」
マスターは淹れたてのコーヒーをテーブルに置きながら言った。そしてカウンターに戻ると照れたように続けた。
「こう見えて私も結構格闘技好きなんですよ。ボクシングのような格闘技って、相手にどれだけのダメージを与えたかで勝敗が決まるわけでしょ。肉体と肉体、魂と魂をぶつけ合って相手に少しでも多くのダメージを蓄積してゆく。でも闘いの最中は絶対に自分も無傷では済まないわけです。どれだけ自分の命を削って闘い、尚且つ最終的に自分が受けたダメージを上回るダメージを相手に与えて勝利をもぎ取る、そう云うスポーツでしょう。両刃の剣の美学ってやつですか・・・」
どうしたのだろう、今日のマスターは嫌に饒舌だ。私は何と返事をしてよいものやら二日酔いの頭でぼんやり聴くともなく聞いていると、マスターは珍しく嵩にかかって自説を開陳した。
「好運にも身体も精神も親から恵まれた素質を貰って生まれた選手っていますよね。彼らは日夜トレーニングを積んで試合に臨むわけですよ。過酷な練習と薄氷を踏むような試合を重ねるごとに心身が磨かれ、共により充実していく。禁欲に耐えた者だけが手にする栄光。それを求めて毎日、少しずつ手応えを感じながら自己を高めてゆく。そして、弱き自分に打ち克って、それを成し遂げた者だけに勝利の女神が降臨する。チャンピオンになるような選手は、まるで昇り竜のように瞬く間にビクトリーロードを駆け上がっていくわけです。でもね、一人の選手の盛衰を追っていくと、不思議にその姿は徐々に重い空気を纏い始めるんですね。対戦相手を叩き潰して勝利を手に入れる度に、相手に与えたダメージと同じだけ自分の心身にもダメージが蓄積していく。そしてある日、チャンピオンから勝利の女神が無慈悲にも離れたのかと思うくらい凡庸な選手になって、突然勝てなくなってしまう。周りはそれを年齢や精神的な問題やトレーニング不足、さらには異性関係や生活態度なんかに原因を求めるんですが、そうじゃないんです。私はね、本来この世は愛と命の循環で回っていて、自分が生きるためには奪うだけでなく、ひたすらそれを与え続ける仕組みになっているんじゃないのかなって思うことがあるんですよ。でも、そもそもボクシングなどの格闘技なんかは、その循環を絶って自分が生き残ることを突き詰めた行為でしょ。一見、相手を倒すことで自分が多くを得たように見えるんですが、実は相手を倒せば倒すほど自分の愛や命を持ち出して、削っていることになるんじゃないですか、そんな風に思うこともあるんです」
私はマスターのいつにない熱弁につい引き込まれてしまったが、コーヒーが冷めないうちにと一口啜った。コーヒーの苦さがいつ迄も口中に残った。そして、なるほどそういう見方もできるのかと漠然と想った。
「彼らの天秤には、片方に天賦の恵まれた身体性とトレーニングと若さの勢いで駆け上がる栄光があり、もう片方には相手の命にダメージを与えた重い負債が一試合ごとに積まれていくわけです。その天秤はある時リミットが来て、それを感じ取った勝利の女神がチャンピオンからすっと離れてカタンと傾く。それからはどう足掻いても坂道を転がり落ちるように転落の一途を辿る。アスリートに限らず私たち凡人だって例外じゃない、つくづくそんな気がするんですよ」
そこまで話すとマスターは一呼吸間を置いて、「人って本来、周りに与え続けることで愛や命の循環のサイクルに入り、自らの命が消耗することなくその人の天寿を全うする。ボクサーやレスラーなんかのアスリートだって例外ではない。そんな定めが等しく天から与えられているんじゃないですかね」
一気に話すとこちらに向いた。視線を感じて私は狼狽えた。マスターの余りに熱を帯びた呟きにすっかり引き込まれてしまっていた自分に気づいたのだ。それに加え、普段の飄然としたマスターとは違った饒舌ぶりに、私は些か気後れもしていた。
確かにその才能を嘱望され、キラキラ輝きながらチャンピオンの階梯を足早に駆け上がった俊英が、儚くもクリスタルガラスの玉が砕けるように霧消していく姿を数多く眼にしていた。余りに早く傾いでしまった彼らの天秤。ぷっつり切れた彼らのキャリア。そう云えば蝶のように舞い蜂のように刺すモハメッド・アリをはじめ、黄金のバンタムと呼ばれたエデル・ジョフレ、永遠のチャンピオン大場政夫、石の拳ロベルト・デュラン、ゴールデン・ボーイと称されたオスカー・デラホーヤ・・・、私は、ボクシング史を彩る彼らの後ろ姿にも、何処となく寂し気な気配が漂っていたことを想い出した。
その日、週末の倦怠感を引き摺った私はさしたる仕事もすることなく、遣り残した仕事の整理程度のことでお茶を濁して、そそくさと帰路に就くことにした。
電車に乗ると、観るともなく車窓を眺めた。そこには無愛想ないつもと変わらない景色だけが流れていた。私はぼんやりと、何を見るともなく視線を宙に泳がせていた。
ターミナル駅に着くと、私の前に贅肉を削ぎ落した精悍な青年の一団がどっと乗り込んできた。彼らの険の有る姿に触発されたのか、ふと、昼に開陳されたマイアミのマスターの話が蘇ってきた。そして、昨晩マニー・パッキャオが闘った相手が、彼の選手生活でベストのファイトを展開したのを想い返していた。
「それにしてもボクシングって一体どんなスポーツだったのだろう」
拳ひとつで勝負がつく。単純すぎて深く考えることも無かったが、マスターの話でもやもやとした想いが残ってしまっていた。
マスターは何て言っていたんだろう。確か「本来この世は愛と命の循環で回っていて、自分が生きるためには奪うだけでなく、ひたすらそれを与え続ける仕組みになっているんじゃないのかな。でも、そもそもボクシングなどの格闘技なんかは、その循環を絶って自分が生き残ることを突き詰めた行為でしょ。一見、相手を倒すことで自分が多くを得たように見えるんですが、実は相手を倒せば倒すほど自分の愛や命を持ち出して、削っていることになるんじゃないですか」、そんな風に言っていたっけ。
拳で相手を圧倒した者が勝利を勝ち取り、名誉を得、賞賛を受ける。下手をすると殺人を惹き起こしかねない殴打と云う行為によって優劣を決する。ルールに則っているとは云え、相手を殴り倒す、人間に許される究極の行為。マスターの言葉を借りれば「愛と命の循環を自ら断つ」こと、それ程までして得ようとするものは何だろう。
それにしても人は何故、あれほどまでにボクシング、いやボクシングに限らず格闘技に熱中するのだろう。そう云えば最古のスポーツがレスリングだと云う説だってあるぐらいだ。古の血が騒ぐってやつなのか。遺伝子に書き込まれた狩猟民族だった頃の記憶がふと蘇りでもするのだろうか。しかし、世の中にいくら格闘技好きが多いとは云え、全ての人間が肉体のぶつかり合いで優劣をつけることに熱中するわけでもなかろう。だとすると、一体どんな奴が格闘技マニアになるのだ。
「そう云えばマイアミのマスターはどんなきっかけで格闘技ファンになったのだろう」
若い頃に肉体を鍛えに鍛えたが、それでも勝負を賭ける踏ん切りがつかず、リング上で闘う拳闘士に自らの姿を仮託して筋肉の動きを楽しんでいるのだろうか。それとも、冴えない日常ですっかり溜め込んでしまったストレスを、リング上で繰り広げられる殴り合いで憂さ晴らしでもしているのか。あるいは贔屓の拳闘士に憑依し、自分に成り代わって仮想の敵をノックアウトする爽快感を味わいたいのか。ファイトするリング上のボクサーに彼の心の裡の何かをインスパイアーされたのか。あるいは・・・。
私は、マスターの呟いた「人って本来、周りに与え続けることで愛や命の循環のサイクルに入り、自らの命が消耗することなくその人の天寿を全うする。そんな定めが天から与えられているんじゃないですかね」と言った言葉を幾度となく反芻していた。
あのマスターのことだから、人生の何処かで人知れず悲惨な出来事が在ったのかもしれない。
「愛と命の循環か、愛と命・・・」
そんなことをつらつらと考えていると、いつの間にか電車は鉄路を叩く音を次第に減じ、降車駅に近づいていた。家路はいつになく遠かった。


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