エロス+黙殺
金楚糕異聞
「来週サァ、市民会館で物産展があるんだってさ、沖縄の」
私は柄になく甲高い声を張り上げてしまった。
「沖縄?」
女房はこれまた素っ頓狂な声で応えた。
私も女房も沖縄が大好きで、結婚前は二人でよく訪れていた。
「木曜日なら昼間、時間が取れるから覗いてみないか」
「いいわよ」
二つ返事だった。
沖縄、そう沖縄は海、景色、海産物、果物、蕎麦、お菓子、それと人柄、女房も私も何もかも好きだった。中でも私は焼き物に夢中にさせられた。
行くたびに焼き物(ヤチムン)通りに出掛けて、「こんなに買い込んでどうするの」、そう女房に呆れられるほど焼き物を買った。魅力的な焼き物の中でも、人間国宝に認定される前の金城次郎氏の作品に夢中になった。南国の魚が力強く器からはみ出さんばかりに躍動している。
「ひとつで好い、ひとつで好いから手に入らないものか」
喉から手が出るほど欲しかったが、その頃でも、金城次郎氏の作品の人気は高く、ちょっと手の届かない金額だった。
「小さな皿の一枚でも好いんだけどな」
無造作に陳列されている魚の模様の器を眺める度に溜息を吐いた。
金城次郎氏の作品は手が届かなかったが、息子さんと娘さんの作るものも、「これは」と思わせる素晴らしいものだった。それに、当時はまだ手の届く金額だった。
「あんまり欲張ると後が大変よ」
女房の忠告も上の空、持ち帰る大変さも忘れて抱瓶(ダチビン)と椀、それに皿を数枚買い求めた。女房はもっぱら果物や菓子などの食材漁りに余念が無く、サーターアンダギーや金楚糕、紫芋の金鍔、ヌチマースなどを買い求めた。
展示会を訪れた当日はあいにくの雨だったが、幸い小雨だったこともあって会場は適度の込み具合だった。
早速女房は果物や海産物などの食品のコーナーに向かった。私は、勿論、手持ちのお金で購えそうなものをじっくりと吟味しようと焼き物の展示してある場所を探した。
やはり焼き物は看板商品なのだろう、入り口を入ってすぐの所に在った。三十分ほどすると、女房がやってきた。籠には既に島辣韭や島バナナ、サーターアンダギーなどが入っていた。
「どう、好いのあった?」
「ああ、どれもこれも好い物ばかりで迷っちゃうよ」
「手あたり次第は止めてよね」
「ああ、判っているさ」
女房はどうも牽制にきたらしい。
それにしても悩む。金城次郎氏の子息の作品は欲しいには欲しいのだが、以前に比べるとかなり高額になっている。
「どうするかな、あの深鉢ひとつだけで我慢するかな」
悩んでいる私の傍らに肉付きの好い中年前の女性と細身の初老の夫人が入ってきた。
「あっ、ここ、焼き物コーナーなのね」
「食品のコーナーは向こうかしら」
やはり女性だ。物産展と云えば矢張り食べ物になるんだな。微笑ましく想った。
「ねぇねぇ、沖縄って云えばやっぱりあれよね、あのお菓子。私、あれ、大好きなの」
「あれって?」
「あの、あれ、何て言ったっけ、ほら」
「サーターアンダギー?」
「じゃなくって、ほら、有名なあれ。そうそう、チンコスウ」
「あっ、そっちのほうね」
私は想わず肉付きの好い女性の顔をマジマジと観てしまった。
「いくら言い間違いとは云え、チンコスウは無いだろう」
観ると、ムッチリと肉付きの好いその女性は身体の線が窺えるニットの上下で、スカートはやっと膝が隠れる程度の短いものだった。スカートから健康そうな膝小僧が覗いていた。膝頭は両方とも赤く擦り剥けていた。私はこみ上げる笑いを収めるために、トイレに駆け込んだ。鏡に映った自分の顔を観て、また笑いがこみ上げてきた。
あの女性が既婚者で、夜の営みをセッセと行っている姿を想像してしまったのだ。短いスカートから覗いていた両ひざは薄っすらと赤く擦り剝けていた。その膝の赤さが饗宴の激しさとなって網膜に蘇ってくる。
「チンコスウって、件の女性は結構過激な営みを夜ごと行っているのだろうか」
両の肘と膝で身体を支え、男のモノを吸い続けていると、両の膝頭が擦り剥けて赤くなる。
「なるほど、そういうことなのか」
そろそろ女房と落ち合って買い物を済ませなくてはならない。女房も待っていることだろう。私は年甲斐もなく、少し歩き辛くなっている自分に気付いてハタと困った。
エロティックな野菜たち
「もうあんな恥ずかしいことは二度としないでね、約束してよ」
女房から散々釘を刺されてしまった。
普通の人と比べて、自分が特段好色だとは思わない。もちろん世間の人がどのような性癖を持っているのか、寡聞にして知らないが。
酔いの勢いと云うのか、友人の挑発する言葉が意識の底に残っていたのか、つい思い切った行動に出てしまっただけなのだ。そのときの女房との遣り取りを縷々ここで話すのは憚られるが、それまで慣れ親しんできた夜の営みのスタイルに少し、ほんの少しばかり変更を加えたのだ、ほんの少し。
「あなたももう還暦近くなって好い歳なんだから、嫌ね」
いつも話し始めに切り出す口癖の陰から垣間見えた女房の呆れたような視線からすると、やはり遣り過ぎだったのかも知れない。
「ムム」
木枯らしの吹き集めた枯葉の小山の上を、早春のまだ冷たい風が吹き渡る。冬の名残りがそこここに見える茅庭を眺めていると、黄色い拳大の塊がいくつか転がっているのが目に入った。老眼用の眼鏡を近眼用のものに掛け換えてマジマジと観ると、枯れた芝生の切れ目から顔を出した福寿草だった。
「俺ももうすぐ還暦なのか」
シミジミ思った。
ゴールデンウイークに娘が孫を連れて帰ってきた。孫は小学校の六年生と保育園に通う姉妹である。
「お父さんも若い頃のように何にでも手を出すんじゃなくて、ひとつ打ち込める趣味でもみつけたらいいのに。蕎麦打ちとか陶芸とか。そうだ、せっかく広い庭があるんだから家庭菜園でもやったらどうかしら」
何の話のついでに出たのかもう記憶も定かではないが、娘が愚痴ともつかぬ言い方をした。
それを小耳に挟んだ上の孫が娘の真似をして笑いながら呟いた。
「お爺ちゃん家は庭が広いんだからお芋や玉蜀黍でも育てればいいのに」
下の孫は「トウモコロシのお爺ちゃん、トウモコロシのお爺ちゃん」と続けた。
「そうか、せっかくの庭も何も植えないでおくと雑草ばかり蔓延ってしまうな」
私の眼に、盛夏の頃になると隆々と繁茂する雑草たちの傍若無人な様子がマザマザと蘇った。
山稜を越えて春風が吹き渡り、ソロソロ播種の季節になろうとしていた。
「老いては子に従うのも好いかも知れない。今年はひとつ家庭菜園でも始めてみるか」
決心したその年の秋、庭の菜園に思いもかけなかった形のものが生えてきてしまった。
土が悪いのか、将又例の放射能の影響か。
どれも女性の股のような形の物であったり、男女が絡み合ったりした姿の物が採れる。男根を彷彿とさせる胡瓜、女性器然とした紫キャベツなど、人様に見られると恥ずかしい物ばかりだ。そんなことが続いたので、生育の様子をこまめに観察して、形がそれとなく判るようになる頃には早々と間引いてしまった。
「普段からいやらしいことばかり考えているから野菜もあんなになっちゃうのよ、本当にもう」
女房からはそう言われる始末だ。
近所からは、あのお宅ではわざわざ品種改良していやらしい形の野菜を作って楽しんでいるのだと噂される。「そういえば、あのお宅の方角から、毎晩喘ぎ声が聞こえてくる」
あることないことを噂される始末だった。
こうなると私の沽券にかかわる。どうにかしてスラっとした、スーパーでよく見かけるような野菜ができないものか、チャレンジしてみることにした。
そこで、通販サイトで家庭菜園の本を買って、多少なりとも勉強してみようと思った。これまでがあまりに無手勝流と云うか自己流と云うか、野菜のことをチットも知らずに育てていた。育てていたとはおこがましい言い方で、種を播き、後は野菜が育つに任せておいたのだ。
「成る程、これでは好い野菜が育つ筈もないな」
本の指示に沿って野菜を作り始めて気がついた。規格品のような野菜を作ろうとすると土づくりはもちろんだが、要らぬものを間引いたり、蔓を選定したり、枝を矯めたり、余分な葉を取り除いたり、追肥をしたり、害虫を駆除したり、袋を掛けたり、ほぼ毎日手を加えなくてはならない。
素人目には、野菜を小さいうちから矯め、サンザン痛めつけることになる。
「果たしてこれでいいのだろうか」
そんな疑問がフと湧いてきた。生育に自信がないのも手伝ってか、気になりだすと野菜が口を極めて異議申し立てをしているような気がしてきた。そのことで夜、寝ていても野菜が悲鳴を上げているのを聞くことが屡々だった。
そこで、翌年からまた元の自由な野菜作りに戻してみた。生るに任せると葉は広々と、茎は隆々と茂り、生気がみなぎり、野菜は天に向かってスクスクと育っていった。収穫する際には、切り口から瑞々しい樹液が迸り出た。すると困ったことが起きた。野菜はまた以前のような卑猥な形に育ってしまうのだ。人目を憚って野菜作りを断念するのか、近所の口さがない連中の風評も気にせずに継続するのか、私は岐路に立たされた。
しかし、卑猥とはなんだろう。そもそも自然とは卑猥なものではないだろうか。
「人があるものを観て、それを卑猥としているに過ぎない」
そうは云っても現実に私の造る野菜はどれもこれも挙って卑猥な形のものばかりだ。
そこで暫く野菜作りは休んで、必要な野菜を購入することにした。スーパーのものでは私の沽券に拘わる。道の駅に出向いて土臭さの残る野菜を直接購入することにした。
平日にも拘わらず、意外にその日、道の駅は混んでいた。午後の早い時間だったのだが、一渡り野菜は完売してしまっていた。店員に訊くと、次の補充がソロソロ始まる頃だと言う。そこで暫く待っていると野菜農家の方だろうか、ケースに人参と大根を満載してやってきた。そしてソソクサと棚に野菜を並べ始めた。早速そのうちの一本を手にして眼を疑った。
「アッ」
私の造ったものなど問題にならない。それは男女の営みを彷彿とさせる卑猥極まりない大根と人参だった。
「さすがにプロの栽培したものは違うな」
私は唸って、買い物も忘れ、道の駅を辞した。
その日以来、また私は家庭菜園に勤しみ、卑猥な形の野菜を人目も気にせず作り続けている。断っておくが、世の中、上には上がある。私程度ではけして好色などとは言わないのだ。
「私程度では」
誤解を吹き散らす噴水
そこは海からも遠く、耳をそばだてても川のせせらぎも聞こえない乾いた街だった。四季を通じて吹く風はカサコソと人々の肌から潤いを奪い、フワフワと疥癬のような白い粉を噴かせた。勿論、虹色の雨が降るなどと云う僥倖に恵まれることも無い。ただ、どういう訳か公共の土地は潤沢で、公園だけはどの地区にも必ず数か所ずつ在った。住民は子どもたちに海や川に親しませてやれないことを何かと眉を顰めて話題にしていた。だが、より声高に叫ぶ声が在った。それは婦人たちの間から澎湃と湧き上がってきた。
「乾燥した空気は何よりもお肌に悪いわ」
美貌を気にする婦人たちが、あるとき、公園に噴水を設置したらどうかと口を極めた。だが、水道を引くような訳にはいかない。結構な土木工事なってしまう。多額の予算が要る。おいそれと設置できない。そこで市民の声として、大きな公園を数か所選んで簡単な、それこそ簡易な噴水を造るように請願することになった。住民は一も二も無く、請願書に署名し、瞬く間に既定の数を超えるだけの数が集まった。
「市長、噴水設置の請願の署名が届きました」
「どれ」
市長室に運び込まれた署名用紙はあちこち汚れたり破れたり、とても有効な署名とは思われなかったが、何しろ数が多かった。
「また、随分集まったものだな。ワシの選挙の時にもこのくらい集まると好いんだが」
市長は堆く積まれた署名用紙の束を指先で突きながら愚痴ともつかぬ言辞を吐いた。
市民の間から起こった声は市長を強力に押して決断を促した。幸い、三年の歳月を要して完成した政府援助のダムが、その年から隣県に電力と水を売り始めた。売却益で多少財政が潤い、噴水を造る予算措置が講じられるようになった。
噴水の竣工式には子どもたちに混じって、それを主導した主婦たちが多数参列した。「また、随分集まったものだな。ワシの選挙の時にもこのくらい集まると好いんだが」
市長は馬鹿の一つ覚えのようなセリフを口にした。
やはり新しいものは耳目を集めるもので、噴水は、暫くは市民の話題となり、憩いの場所として賑わった。
だが、半年もすると誰も予測していなかったことが起きた。日中に限って人々の足が噴水から遠のき始めたのだ。その一方、夜な夜な男女が誘い合わせて噴水の在る公園に屯し出したのだった。
そこには偶然のもたらした符合が在った。
「よく聴けば猫の水呑む音で無し」
言い古されているように、噴水の落ちる音が男女の睦事の際に発する音に似ているのだ。そのことは市民の誰もが気付いているのだが、恥ずかしがって誰も口にしない。本能はムクムクと頭を擡げ、人々の理性を眠り込ませた。
その音に影響されてか、夜になると手当たり次第公園に来ては番う男女が現われた。警察も業を煮やして追い払うのだが、ちょっとした隙を狙っては木陰で事に及んでしまう。警察との鼬ごっこは人々の勝利に終わった。
暫くすると人口が急増した。幼年人口の増大は福祉予算を瞬く間に喰い尽くしてしまった。不足した予算はどうにかして埋めなくてはならない。市民税、水道料金、保険料が高騰し、ゴミの回収費や公共交通料金も上げざるを得なくなった。古色蒼然とした人頭税や奢侈税の新設まで真面目に検討される始末だった。
市民の間から噴水を造った市長に対して不満が募った。だが、その原因は誰も口にすることはなかった。不満は憎悪を呼び、憎悪は憤怒を引き連れてきた。遂に市長はリコールされてしまった。
辞めるときに市長は想い出にと公園の前を通った。この公園の噴水が自分を辞任に追いやったとも知らずに。そして噴水の縁に座って考え込んでしまった。自分がリコールされたことに対して思い当たる節は無い。思いがけず悔しさが込み上げてきた。名残惜しいので暫く立ち止まって噴水の音に耳を傾けてみた。
「さて」と立ち去ろうとしたとき、どうにも歩きにくいことに気が付いた。市長の身体の一部がすっかり変形してしまって、その部分が邪魔をして歩きにくくなっていたのだ。その時、市長はハタと気が付いた。
「そうか、こいつが首謀者だったのか」
風鈴と嬌声
「チリリン、チリン、チリリン、チリン」
風もないのに風鈴の音がする。
「カタ、カタ、カタ」
家具が壁を打つ音が幽かに聞こえる。
犬の遠吠えが聞こえる。
小刻みな振動がコトの始まりを告げる。
暫くすると揺れの振幅が大きくなり、古い木製の硝子戸がガタガタと鳴りだす。堪えきれずに漏らす女の嬌声が壁越しに流れてくる。
「アッ、アッ、アッ」
やがて溜まった息を間歇的に吐く息使いが聞こえる。
「アン、アン、アン、アァ~」
揺れが激しくなったかと思うと、まもなく感極まった断末魔の叫び声で終わる。
土曜の深夜になると嬌態は決まって繰り広げられる。
その古い二階建ての木造アパートには、廊下を挟んで一階と二階合わせて八つの部屋がある。いずれも六畳の部屋で、入り口に単身者用の小さな流しとガスコンロが据え付けられていて、ちょっとした煮炊きのできる台所になっていた。
そこは、私にとっては、上京して二軒目の下宿だった。最初は、山梨の実家に帰るのに便利なのと、広い割には安かったので、八王子にアパートを借りた。しかし、新宿のキャンパスに通うには、如何せん時間がかかり過ぎた。二年生に進級する際、物件の探しやすいタイミングを見計らって、その年の冬に引っ越してきた。
都内に唯一つ残った都電荒川線の雑司ヶ谷駅の際に建っていたそのアパートは、通学にはすこぶる便利だった。多少時間に余裕のあるときなどには歩いても授業に間に合う立地の好さに加え、夏目漱石や竹久夢二、さらに泉鏡花などの墓がある閑静な場所だった。読書に疲れたときや考えがまとまらないときなどには墓地を散策した。
ただ、温かくなると藪蚊が出るのが難点だった。
毎週土曜日の深夜に催される隣室の饗宴に気が付いたのは、新学期の準備に忙殺されていた四月の上旬だった。
梁と柱の繋目が軋む音を耳にしたときは、てっきり地震かと思った。しかし、ニュースのテロップにも、地震速報は出てこない。強風に煽られているのかと思って窓の外に眼を遣ると、墓地の雑木は静かに佇んで、風鈴も沈黙し、風はソヨとも吹いている気配はない。
女の嬌声が漏れてこなければ、揺れの原因は判らず終いだった。
さほど気にするほどのことでもなかったのだろう。しかし、毎週末、決まって饗宴が繰り広げられるとなると、どうしても期待し、耳を欹ててしまう。すると、以前聞こえなかった小さな音も次第に鮮明に聞こえるようになってくる。
懸命に堪えているのだが、どうしても漏れてしまう吐息。猫が水を飲むときにたてるようなピチャピチャという音。布団の上で肌を擦り合わせる音。これらの幽かな物音までが耳に届く。
嬌声の主が、近くに在る小学校の音楽の先生だと知ったのは、その年の秋口だった。
十月の家賃を払いに、敷地内にある大家の所に行ったときのことだった。
「Iさん、申し訳ないんだけど、お隣の先生から『風鈴の音が喧しいのでどうにかならないですか』って言ってきているんですよ」
家主の奥さんはすまな気だった。
その年の夏、大学のサークルの合宿で岩手県の遠野に行ったとき、南部鉄器の風鈴の透明感のある音色が気に入って、お土産に買ってきた。早速、軒下にぶら下げて音色を楽しんでいたのだが、秋口になっても、そのままにしていた。秋に入り風が強さを増して、時に台風などが来たときなどは、確かに喧しいほどだった。
とかく、自分の立てた音には無頓着で、他人の出す音には過剰に反応してしまうのが人の感覚なのだろう。
「そうですか。気が付かなかったなあ、すぐに仕舞います」
頭を掻いた。
その女教師とは、一度だけ、廊下ですれ違ったことがある。小太りで、女性としては大柄だった。百六十センチを超えていたかもしれない。確かにこの身体で我を忘れてコトに励んでいると、アパートは年代ものだけに揺れは生じるだろう、と思わせる体躯だった。
その日はまだ暑い盛りだったので、女教師は短いスカートを穿いていた。スカートから健康そうな膝小僧が覗いていた。膝頭は両方とも赤く擦り剥けていた。
その膝の赤さが、饗宴の際に網膜に蘇ってくる。
膝頭が赤くなっているということは、女教師は後背位で交わっていることになる。両の肘と膝で身体を支え、後ろから男を受け容れる。愛の交感を夢中で続けていると、両の膝頭が擦り剥けて赤くなる。体育の先生ならともかく、音楽の先生が膝頭を擦り剥くことは、通常なら考えられない。
そんなことに想いを巡らしていると、カタ、カタ、カタと深夜に音がするたびに、後背位で交わっている女教師の嬌態を思い浮かべてしまう。
冬休みに帰省していた。正月くらいは顔を見せろと、母が強い口調で電話を寄越してきた。年が明けてアパートに戻ると、深夜、また小刻みな振動が始まった。一度仕舞った風鈴を取り出し、窓に下げてみた。すると、風鈴はリズミカルに、風もないのにチリリン、チリンと仄かな音を立て始めた。犬が遠くで鳴いていた。
風はソヨとも吹く気配はない。もうすぐ女教師のすすり泣きが聞こえてくるだろう。
翌日、大家の所に田舎の土産を渡しがてら、遅れていた一月の家賃を払いにいった。
「あら、いつも気を使っていただいて、済みませんね」
奥さんは気さくな笑いを浮かべ、ソソクサと出てきた。
「そうだ、お隣さん、あの先生ね、急に引っ越すことになって暮れに移られたのよ。今度はなんでも練馬から通うんだって」
作り笑いで応えるとそう教えてくれた。
「引っ越したって?」
だとすると昨晩の振動と女の嬌声、そして犬の遠吠えと共に鳴り続けていたあの風鈴の音は一体。
夢の魚の夢
駅前からK子のマンションまで、道路の端に雨の名残が所々残っていた。
マンションに入ると、K子はいきなり唇を求めてきた。ワインに酔った勢いがあったのかも知れない。転がるようにベッドに入ると、枕もとにもう一人のK子がいるのではと思わせる濃密な香りがして、Mをいきり立たせた。Mがブラウスのボタンを外すのに手間取っていると、K子は背中に手を回し、足を絡めてきた。Mも久しぶりの逢瀬で、それに睡眠不足も手伝い、硬度は嫌が応にも増してきた。
一つの仕草が語り合わせたように次の深みへと誘い、二人は約束の形に雪崩れ込む。いつの間にか、共同執筆のシナリオに沿って進む芝居のように、ルーティーンを繰り返す。二人の囁き。二人だけの作業。確かめ合い、補正し合い、言葉のない濃密な肉体の会話を交わす。
K子の喘ぐ声が次第に昇り詰めた気配をMに伝える。Mは思わず攻撃態勢に入りそうになったが、堪えた。そして、ただ一点屹立したそこに向けて、血潮が足早に移動し、どくどくと波打ち始めた。K子は無我の裡に善意の闘いを仕掛けてくる。Mの火器は、裡からの拍動と外からの圧迫に呼応して凛々しさを増し、炸裂の瞬間に備えた。
本来ならば交わることのない平行線。性という転轍機によって交差するふたつのライン。その曲線の変化につれて交点も移動する。そこであったり、あそこであったり、時に転々とし、時に変調し、終局へと向かう。
確かにK子のような美人が自分の恋人になってくれたことにMは時折戸惑いを感じる。立場を利用して性的な関係に持ち込んではいないかと危惧が湧いてくる。時に中学時代の女教師とのセックスがオーバーラップし、自己嫌悪に陥ることもあった。
MはK子の嬌態に飲み込まれそうになった。
と、その瞬間、甘美な感覚が二人の全身を貫き、K子が掠れた声をあげ、もう一度貪るようにMを引き入れた。
身体の芯から全身へとじわじわ萎えてゆく。体の前面に預けていた体重を脇へ、そして背中へと移し、K子の身体から離れた。脱力感と疲労感、そして羞恥心と多少の背徳感が、ふとMの頭を過った。いつものこと乍ら、行為の後の倦怠感が虚しさを連れてやってきた。何もしたくない。何も考えたくない。夢中で貪っていたつい今しがたとは打って変わった虚ろな世界に、肉体も精神も弛緩しきった自分が漂っている。しかし、そこには消すに消せない痕跡が残されていた。二人とも滂沱の汗をかいている。ピンクのシーツに、人の輪郭を描いたように汗の跡ができていた。
ある土曜日の午後、K子のマンションに熱帯魚店から水槽が届いた。
その週末、Mは北海道に二泊三日で出張に出かけていた。週が明けて、仕事の合間に買ったチョコレートを持ってK子のマンションを訪れた。雨上がりの青空にくっきりと引かれた飛行機雲に誘われて、壁際の水槽に眼がいった。水槽の上には、Mが以前K子にプレゼントした水銀の入った置物が飾ってある。
「ディスカスか、ブルー? 珍しい色だね。初めて? 凝った魚を選んだね」
「初心者には難しいの?」
「そうじゃないけど、グッピーやスマトラとか、ネオンテトラなんかの、ほら、よく知られた魚から始めて、大きな魚に移るっていうのが普通じゃないかな」
「会社帰りに熱帯魚屋で水槽を眺めていたの。そしたら、この魚が水の中ですごく綺麗に見えて、それでどうしても飼ってみたかったんだ」
「ふぅん、そうなんだ。ねぇ、このディスカスはとっても面白い習性があるんだよ。産んだ卵が孵ると、親は自分の出す粘膜を餌として子どもに食べさせて育てるんだ。親が子どもに餌を与える魚なんて、とっても珍しいんだ」
Mは、諭すようにK子に説明した。
暫く土産のチョコレートを肴にソファーに凭れてジャックダニエルを舐めていると、二人は晩秋の午後の暖かな陽差しの中で寝入ってしまった。
微睡のなかでMは夢を見ていた。
何故か水槽にはブルーディスカスの姿はなく、グッピーがたくさんいた。水槽は人の背丈をはるかに超えた巨大なものだった。左右も上下も、奥行きさえも判らない。ただ、不思議なことに自分は水槽を前にしているという感覚だけがあった。グッピーは水草の間をヒラヒラと泳ぎ回っている。
水草は背の高いアマモのようなスラッとしたものだった。ユラユラと波に揺れる水草を縫って泳ぐグッピーの姿に見入っていると、水草がどんどん成長して、あれよ、あれよという間に水槽を埋め尽くしてしまった。水槽に納まりきれなくなった水草は、今度は水槽の上蓋の浄水器や蛍光灯を押しのけて上に伸びてゆく。
気がつくと、水槽の水が三分の一ほどに減っている。グッピーは底にへばりつき、酸欠なのか、横になって泳ぎながら喘いでいる。水槽を注意して見てみると、赤と白に塗り分けられたオトヒメエビが暴れている。どうもそこから水が漏れているらしい。水が漏れているだけではない。漏れて溜った水の中で、こちらでもグッピーが苦しそうに跳ねている。数えると三匹いた。グッピーを拾いに水槽の左側に回ろうとすると、床が滑って先に進めない。やっとのことで回り込むと、裏側に隙間がある。その隙間から水槽を覗くと、そこにはグッピーではなく、巨大なブルーディスカスが悠然と、数百匹の群を為して泳いでいた。
しかも、そのブルーディスカスは水中を泳いでいるわけではなかった。紫陽花の繁茂するなかを色とりどりの花の間を縫うように舞っている。紫紺や赤紫、薄紫の花弁の上を舞うブルーディスカス。薄い青を纏った銀色をして、一瞬、視界から消え、花弁に隠れてしまう。暫く消失した地点に眼を凝らしていると、ふっとブルーディスカスは姿を現す。風に靡くようにワサワサと揺れる水草の間を、次第に紫陽花の花弁とブルーディスカスの青味を帯びた銀色が、モネの睡蓮の絵のように混然一体となって色のタペストリーになってしまった。
目が覚めたMは、水槽のカバーを外し、手にしたグラスを水面に近づけ、中身を静かに注いだ。透明な水のなかに琥珀色の小さな渦が縦に幾つかでき、渦は底に向かって伸びていった。水で薄くなったジャックダニエルの琥珀色は、みるみる水に溶けて消えてしまった。暫く様子を観ていたが、ブルーディスカスは何事もなかったかのように泳いでいる。
すると今度は、水槽の淵に在った水銀の入ったガラス容器を手にした。天井の蛍光灯の灯りに翳すと、水銀の表面が鈍い光を放って揺れている。
ブルーディスカスは棚引く水草の間を泳いでいる。オトヒメエビが腹部に密生した足を高速で回転させ、ユルユルと移動する。ポンプのモーター音だけが静まりかえった部屋のなかでキッチュな低音を響かせる。
Mは、おもむろにそのガラスの容器の栓を抜き、水銀を一滴、二滴と垂らし始めた。水銀は落とされると、水中で丸くなり、列を為して静かに沈んでいく。
底に達した水銀は語り合わせたように近づき、一つの塊になっていく。水槽の底で扁平な球状になった水銀は、落ちてくる水銀を、親しい仲間を待ち受けるようにして迎え入れる。
水槽の底に溜まった水銀は、モーターの振動で細かく震えている。何事もなかったかのように、ブルーディスカスは揺れる水草の間を優雅に泳いでいる。水槽の底には、細かな砂の上に水銀が、上から落ちてくる水銀を取り込み、丸く、ゆっくりと増殖し始める。
Mはグラスを手にすると、ジャックダニエルを注ぎ、今度はストレートで飲み干した。喉がカッと焼けつくように熱くなった。陽は既に傾き、窓の外ではいつしか青空が濃紺の色を増し、群青の闇が迫っている。
少し開いた寝室のドアから遠く近く、眠りを深めたK子の寝息が流れてくる。
「もしなれるならば、ブルーディスカスになって自由に水槽の中を泳ぎ回りたい。ポンプの作るユッタリとした流れに弄ばれて、ユラユラと白砂の上を転がっている水銀と戯れて」
Mはそんなふうに想った。
ユラユラと揺れる水草の下を、眠りを誘うようなポンプの立てる水音を夢枕に、暫し、転々と、気ままな時は流れる。
「何もかも忘れて、このままずっと、永遠に」