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心の女優ライトを消したとき、真実の中年が佇む。

人間だれしも鏡を見るときにはなんらかのバイアスがかかっている。いくら「客観的に」眺めているつもりでも、自我や自意識のフィルターによってどこか「見たい自分」を鏡の向こうに投影してしまうものだ。

思い描く自己イメージと、客観的に見えている自分の様子とがなにやら大きく乖離しているということが、この年になってだんだんとわかってきた。知らない間に心の女優ライトの光量をマシマシにしていたのだろう。突然にそれが消された時、暗闇の向こうに真実のおっさんが立ち現れる。二重アゴにお下げ髪。花嫁衣装から突き出した毛むくじゃらの足。両手で顔を覆って、ヴァージンロードをひたすら逃走したい気持ちだ。

わたしが鏡を見るとき、薄くなった頭髪や深く刻まれたほうれい線などは見ていない。いや、実際に見えてはいるが見ようとはしていない。犬のうんこを飛び越えるように華麗にスルーしている。それどころか、鏡に映るわたしの目鼻立ちは現実のわたしよりもはっきりとしている。まつげにおいてもジュード・ロウ程度には伸びている。風が吹けばなびく。心なしか瞳も青い気がする。先週よりもだいぶ青い。見れば見るほど日本人離れしている。英国の伊達男。社会に吠える一匹狼。そんなキャッチフレーズも次々と浮かび上がってくる。もはやそこに真実はない。

勝負は、鏡の前に立ったときにすでにはじまっている。「さあ、鏡を見ますよ」なんて気持ちでいてはだめだ。もうその時点でうぬぼれやすい自我は自意識はタキシードを着ている。蝶ネクタイを結んじゃっている。足を組んで台本を読んでいる。そうやって、鏡に理想の自分の姿を捉えようと待ちぶせしているのだ! では、どのようにそれを回避すればよいのか。簡単だ。それは、「電車の窓に映った自分の姿が完全におっさんだった」ように、こちらが準備を整える前に仕留めなくてはいけない。たとえば──家人に協力してもらって、事前に場所を告げずに鏡の設置場所を変えるとか、家でくつろいでいるときに不用意にポートレート写真を激写する。そうやって間隙を突くのである。

先日わたしは、寝起きの顔を妻に撮られた。まったくの無防備な状態だった。そこには、ただリアルが写っていた。ぼさぼさの頭。こぼれた目やに。白く乾いた涎のすじ。ブラック・ジャックのように頬に刻まれた枕のあと……。それは、掛け値なしの寝起きのおっさんだった。混じりっけなしの、フレッシュな寝起きのおっさん100%果汁がほとばしっていた。100年後の人が本に挟まっていたその写真を偶然見つけたとき、手がかりが何ひとつなかったとしても「あ、昔の寝起きのおっさんや」と呟くような、そういうやつ。それを見たとき、まるで動かぬ証拠を突きつけられたような気がした。

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