『シュピナートヌィ・サラート・ス・ヨーグルタムの休日』 #同じテーマで小説を書こう
「欠けちゃった」
彼女はそう言って、少しだけ微笑んだ。
手に持った皿は逆さまで、最後の一滴が裏返しの絨毯に滲んだ。
「なにが?」
「お月さま」
ぼくは割れた窓の先に目を向けた。
夜が泳いでいた。
薄い雲の一つ一つが魚のように流れ、檸檬のような形になった月に集まっていくのを幻視した。
月の光はこの部屋を淡く浮き出たせている。
その穏やかな充満がこの部屋にはあった。
「嬉しいの?」
「ううん」
だらりと伸びた彼女の腕はひどく細くて、指先は糸のように力なかった。
「ならどうして」
そこまで言いかけて、ぼくは口ごもった。
彼女の頬に光を見たのだ。
微笑んでいる。
泣いている。
それを歪だとぼくは感じたけれど、彼女の中では均衡なのかもしれない。
ぼくにはわからなかった。
彼女の心は白で、そこに意識を傾けてみても、どうしたって入り込めなかった。
「泣かないで」
代わりにぼくは懇願していた。
この薄暗い部屋の中で、月明かりに照らされた彼女は美しかった。
「どうして?」
「消えちゃうから」
ああ、と呟いて彼女は微笑みを崩した。
心の色が縁の方から濁っていくのが見えた。
たぶん、悲しいのだ。
この何もない部屋で、要らないものが溢れた部屋で、僕らの繋がりが消えてしまったら本当に何もなくなってしまう。要らなくなってしまう。
かつて、この場所を「棺桶のようだ」と言った男性がいた。
そんな彼は最後には心を透明にして消えてしまった。
かつて、この場所を「砂漠のようだ」と言った女性がいた。
そんな彼女は最後には心の色がわからなくなり消えてしまった。
ぼくらもいつかそうなってしまうのだろうか。
「消えたくはないなあ」
目の前の彼女は表情を隠したまま、視線を部屋の隅に移した。
その先には、かつて棺桶のようだと言った男性だったものと、かつて砂漠のようだと言った女性だったものが並んで横たわっていた。
ぼくらはそれらを人形と呼んだ。
死んでいるわけではない。
けれどもう死んでいるのだ。
心が無いのだから。
ぼくと彼女は、この部屋に残る最後の二人だった。
「君が消えてしまったら」
一歩、前進もうとすると、空転したような力の無さがあった。
紐のない紐靴でぼくは立っている。
「僕は泣くよ」
「泣かないで」
「でも……」
「泣かないで」
彼女は微笑んだ。涙の跡は乾き始めていた。
ぼくらは誰よりもお互いのことを想っている。
けれどぼくらは一番奥でわかりあえないままでいた。心と呼ばれるものの色が見える最後の二人として、ぼくらは生きている。
人であるために大切なものが心だったとして、ぼくらはそのせいでいつまでもわかりあえないままでいる。
他の人はそれを放棄し、人であることをやめてしまった。
ぼくらだけがわかりあえないままで、今人として生きている。
ここは棺桶なのではない。
ここは砂漠などではない。
ここは楽園なのだ。
人にとっての最後の楽園なのだ。
ここには悲しみがあり、苦しみがある。
目の前に彼女がいる。
そしてぼくの中には愛しさがある。
これでいい。
これでいいはずだ。
「静かだね」
「そうだね」
ぼくらはそれ以上何も言わず、床に座り込み肩を寄せ合った。
ぼくの体温が彼女へ伝わり、彼女の体温がぼくへと伝わった。
この温かみだけで、この人生は要らないものではなかったと、そう強く確信できた。
「ありがとう」
彼女が言う。
「こちらこそ」
ぼくは答える。
ふいに涙が溢れた。
この感情がいつまでも続けばいいと思った。
悲しい。
苦しい。
そして愛おしい。
ぼくら二人、夜に揺蕩っている。
ー了ー
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参加した企画はこちら
過去最高難易度でした。
今度はもう少しお手柔らかにお願いします。
ね。
本当に。