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花束みたいな恋をしたい

ずっと観たかった映画がついに公開した。

脚本が坂元裕二さんで、監督が土井裕泰さんというのを見て、「カルテットだ!」と思った。
制作が決まったというネットニュースを8月の終わり頃に見てから、絶対に見ようと決めていた映画だった。

『花束みたいな恋をした』

観た時に感じたことやこの気持ちを、忘れないうちに書き留めておくことにする。※ネタバレを含みますので、観る予定のある方はご注意くださいね。

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1ヶ月ぶりくらいに恋人と会った。

吉祥寺駅で待ち合わせして、井の頭公園へ。

飲み物を買って、スワンボートとキラキラの水面を見ながら『花束みたいな恋をした』が公開した話をすると、これから観に行こうか、と言ってくれた。

その場でチケットを取って、吉祥寺オデオンへ行く。

映画が始まると、明大前や調布など、私が大学生の頃によくいた場所たちがたくさん映っていて、懐かしい気持ちになった。

あの道、甲州街道沿い、今隣で映画を見ている彼ではない、当時の恋人とよく歩いたな、と思いながら観ていた。

「何かが始まる予感がして、心臓が鳴った」

ふたりが偶然出会って付き合うところまでは、正直、ありきたりな恋愛物なのだろうかと思っていた。

とはいえ、やはり端々にカルテットみを感じる場面はあって、

「あと、ハンドクリーム」

「はい。あの人ハンドクリーム塗ったばっかりなのに」

「おしぼりで手拭いてましたよね」

「ですよね」

とか、

「ジャンケンって、グーが石で、チョキがハサミで、パーが紙でしょ」

「紙が石に勝つわけないじゃないですか。普通に破れるでしょ」

とか、

「信号まだ変わらないな」

「押しボタン式だから」

「サンキュー押しボタン式信号」

とか、「サンキュー、パセリ」を思い出して、

すごくカルテットを思い出した。坂元さんだなって思った。

絹と麦のふたりが調布駅から徒歩30分の家で、ふたりの生活を始めたくらいから、いつのまにか自分のことと重ね合わせて観ていた。

ふたりでカーテンを広げたり、マットレスの上で転がってみたり、

ベランダにウッドパネルを敷き詰めて、電気がついたことに歓声を上げる。

ふたりは、おそろいのジャックパーセルをはいて、買い物に行く。

花束とトイレットペーパーを抱えて、年老いたご夫婦でやっているパン屋さんに寄る。

笑いながら、買った焼きそばパンをほおばって、多摩川沿いを歩いて帰る。

羨ましい、なんて完璧な恋愛だろうと思った。
ふたりもきっとそう思っていただろう。

きっとこのままこういう生活が続くのだ。好きな人と好きなものに囲まれて、何にも、誰にも、邪魔されない生活が続くと信じていたのだろう。

わたしが絹だったら、麦だったら、そう信じきってしまうに決まっている。

当たり前だと思っていた生活は、少しずつ、でも確実に変わっていく。

麦が就職活動をすると決めた時、

「このままずっとこういう感じが続くのかなって思ってたから」という絹に、

「こういう感じだよ。ただ就職するってだけで何も変わらないよ」と麦はいった。

けれど、麦の就職によって、二人の生活とふたりの関係性は激変した。

好きなものが一緒で、おんなじ感性を持っていて、そうやって付き合い始めたふたりだったのに、好きなものや好きなことの話をすることもなくなっていった。

冬のある日商店街へ出かけた絹は、麦とおそろいのジャックパーセルをはいてふたりで買い物をしたあの日に、おいしい焼きそばパンを買ったパン屋さんが、いつのまにか閉店していたことを知る。

絹は「パン屋の木村屋さん、お店畳んじゃってたよ」と麦にラインをするけれど、麦から返ってきたのは「駅前のパン屋さんで買えばいいじゃん」というものだった。

個人的に、このシーンがとても悲しかった。

そういう問題じゃない、と思った。

悲しいと感じることや、寂しいと感じることはひとそれぞれだから、相手におんなじだけ悲しんでほしい、寂しがってほしい、というのは傲慢なのかもしれない。けれど、おいしいねとふたりで笑いながら焼きそばパンをほおばったあの時間も、あの時のふたりのことも、否定されたような気持ちになってしまう。

麦は麦で、これから押し寄せる激務を想像して途方にくれていて、そんな余裕なかったのだとは思うが、それでもやっぱり悲しかった。

それからしばらく経って、麦の先輩が死んだ。
お葬式の帰り、2人で先輩が好きだった紅生姜天そばを食べて帰る。
麦は絹と夜通し先輩の話をしたかったけれど、
絹は早々に寝てしまった。

麦は同じように悲しんで欲しくて、絹は同じように悲しめなくて、そんな自分自身が嫌になる。

でも、麦はパン屋さんがなくなったことを、絹と同じようには悲しんでくれなかったのに、自分が悲しいことは同じように悲しんで欲しいんだなあと思った。
人の死とパン屋さんがなくなることは同じではないだろうって思われるかもしれないけれど、それだってひとそれぞれだ。

告白しようと決めていた日も同じだったふたりは、
別れようと決めていた日も同じだった。

共通の友人の結婚式に参加した帰り、
麦が絹に告白して付き合い始めたファミレスに寄った。
そこでふたりは別れ話をするけれど、
けっして「別れよう」とは言わない。

付き合い始めたあの頃の絹と麦みたいな男女が入ってきて、もうあの頃には戻れないと悟ったふたり。絹は泣きながら外に飛び出す。
麦もその後を追いかけて絹を抱き締めて、
ふたりで抱き合いながら泣くけれど。

ここで仲直りしたり、
なにもなかったように元に戻らないところがよかった。

人はそう簡単に変わらないし、関係だってそう簡単には変わらない。

『カルテット』で真紀さんも言っていた。
「人生には後から気付いて、間に合わなかったってこともあるんですよ?」と。

ドラマや映画では都合よく間に合ったり、なかったことになっていたりするけれど、この映画はそうじゃなかった。
それがすごく悲しくて、すごく嬉しかった。


どんな結末を迎えようと、2人の恋が眩しくて愛しくて、奇跡のような5年間だったことは間違いない。

2人に別れが見えてきた頃、涙が出てきて、それから終わるまでずっと涙が止まらなかった。
映画が終わった後、彼に「ずっとすんすん言ってたね」と言われて少し恥ずかしかった。
マスクとあごの接している部分が笑ってしまうほど濡れていた。

観た後は誰かとこの気持ちを共有せずにはいられない、そんな映画だった。

観てからなぜだかずっと心が苦しくて、切なくて。
なかなか書き進められない上に、
なんだか随分と長くなってしまった。

苦しくても切なくても、何度も観たいと思った映画でした。

甲州街道沿いを一緒に歩いた昔の恋人のことよりも、
ずっとずっと大好きな彼との恋を、
花束みたいな恋にしたいと思った。

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