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鬼滅の刃に学ぶ人生論

なぜこんなに流行ったのか…?
娘たちがなかなかグロい表現の多いこの物語にどうしてここまで騒いでいるのか。
読んでみて、大人にササる言葉や深い考えが随所に見られ、見事に魅力された。

大正時代の話だし、鬼との戦いというフィクションの物語でありながら、でもなんだか今の時代を表してるような…むしろこれからの時代を予見するような…読みながらそんな感覚があった。
物語の中で”柱”と呼ばれる鬼殺隊の精鋭たちの言葉や行動が、現代の理想のリーダー像であったり、鬼の始祖であるボスキャラ”鬼舞辻無惨”のブラック企業的思想であったり、”死”というものをファンタジーでなく、誰にでもくるべき普遍のものとして描かれている点などが子供のみならず、大人の支持を受けたのではないか。
そうでなければ、子供のお小遣いだけではこれだけ爆発的にブームがくるわけもなく、パトロン的存在の親たちが子供と一緒にハマれたからこそ、これだけのブームになったのではないか。
自分自身がグッときたポイントとあわせて、なぜここまで大人をも魅了したのかを分析してみた。

生殺与奪の権を他人に握らせるな

物語開始早々に出てくる名言。鬼に家族を殺され、唯一生き残ったものの鬼になった妹を守るため、必死に命乞いをする主人公“炭治郎”。そんな炭治郎に向けて、鬼殺隊水柱の“冨岡義勇”が放った言葉で、迷える中間管理職を中心に支持を集めそうな言葉。
ようは、妹を守りたいのならば、なぜその選択肢を人に持たせるようなことをするのか、守りたいなら自分でどうにかすることを考えろ、ということ。
よく考えると自分自身も若いときによく思ってた気もするが、会社に対する不満を言う人のよくあるパターンで「上司が決めてくれない」「動いてくれない」から仕事が進まないという不満。なぜ上司が決められないのか、動いてくれないのか、逆にどうすれば決められるのか、動いてくれるのかを考えずにひたすら不満を抱えている状況に対して、この言葉をぶつけてやりたい…。
どんなに親しい人でも他人をコントロールは出来ないのに、どうして大事なことを全て他人に委ねてしまうのか。自分が確実にコントロール出来るのは自分自身だけ。仕事が進まないのであれば、どうすれば進むのか、自ら考え行動しろということを教えてもらったように感じる。

鬼には鬼なりのストーリーがある

鬼と柱は表裏一体というか、境遇は似たところも多いように感じる。憎悪の矛先が人間か鬼か、ターニングポイントで出会った人などにもよって悪と善どちらかの道に行くか、鬼と柱の分岐点とも言えるのではないか。
現実世界では鬼や柱などがいない分、こんなにはっきりと明暗が別れないだけで、多かれ少なかれ自分の努力ではどうしようものないことや偶然性みたいな部分があることも認め、その上でどう行動するかの大切さを伝えているようにも感じる。
そして、鬼にも鬼になった理由があり、必ずしも100%悪というわけではないというところも大人を魅了する理由のひとつ。
これまでの少年漫画では、子供にもわかりやすく敵というのは憎むべき”悪”であり、地球を侵略しようとしたり、自分の欲望のまま、仲間のことをなんとも思わなかったりととにかく情状酌量の余地がない敵であることが多かったですが、この物語では鬼も元々は人間であり、鬼になった悲しい背景や苦しみ、葛藤なども鬼の死に際に描かれている。
生きているとそんな簡単に”善”と”悪”というのを分けるのは難しく、もはや誰の言葉なのかもよくわからないが”正義の反対はまた別の正義”という言葉のように、敵側にとっての”正義”が主人公側から見たときの”悪”となるということを教えてくれる。
そして、そんな”悪”に対して、主人公である異常なまでに心優しい少年”炭治郎”が鬼の死に際に思いを馳せて、次に生まれてくるときは人間に…という慈悲の言葉をかける。
インターネットの登場でここ数年で、複雑でいろんな思惑や憶測が飛び交う中、生きていかなければならない子どもたちに向けても伝えていきたい考え方でもある。

継国縁壱の生きざま

ラスボス“鬼舞辻無惨”が「奴こそ本物のバケモノ」と恐れる鬼狩り最強の剣士“継国縁壱”。
そんな、とにかくとんでもなく強い剣士でありながら、全く驕りのない生きざまに人間としての深みを感じるような人物像。
“道を極めた物が辿り着く場所はいつも同じだ”
、“時代が変わろうとそこに至るまでの道が違おうとも必ず同じ場所に行きつく”と、自分自身が特別な存在ではなく、むしろ大切なものすら守れなかった価値のない男だと言っている。
自分など大したものではなく、後世でも武を極める者は必ず現れ、自分のことなど簡単に超えていくだろうと考えている。
ある意味、楽観主義にも見えるが未来に対して明るい希望みたいなものを確信しており、自分自身の役割をただ目の前の誰かを助けるために存在すると決めているように感じる。

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実際、縁壱のこういった想いは、柱達にもしっかりと受け継がれており、柱になったものは皆人のために生きること、命をかけることを厭わない人間ばかり。
上弦の鬼たちも柱の強さを認め、鬼になれば更なる高みを目指すことができるとスカウトするが、柱たちは全く意に介さず。鬼になれば強くなるだけでなく老いることもなくなるが、そんなことよりも“人のために生きる”ことを重視している。
人は人のために生きてこそ、“幸せ”を感じる。逆に鬼は何百年も生きながらえているものの、人間ときの記憶も薄くなり、ただひたすらに無惨の命令に従っている。生きる意味が何なのかを考えることすらしない。
どれだけ生きるか、よりもどう生きるかこそが人生において大切であることを思い知らされる。
単行本の話の合間には漫画の中だけでは書ききれない細かい設定なども含めて、そういった“人生”とか“生きる意味”みたいなものを考えされられる言葉が数多くあり、これこそが大人を惹きつける一番の魅力であるように感じる。

主人公の家族や柱が次々と死んでいったり、鬼の首を切ったり、鬼が人を食うなどの子供にはかなり過激な表現が多いため、まだまだ嫌厭されている大人も多いと思うが、それ以上に学びが多い漫画である。(アニメ版はカラーであるのと動画である分、子供によっては衝撃を受けるかも知れないので漫画推奨)
我が家の子供たちは、ここに書いたような深い意味や柱、鬼の死に様から語られる人生のいろいろな形を理解するまでには時間がかかると思うが、漫画というのはまた読み返せるものでもあるので中学生、高校生ぐらいになってから改めて読んでみるとまた違った感想が聞かせてくれるのではないか、楽しみに待ちたいとおもう。


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