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風土記の地名物語――常陸国5
行方郡は長いので分割します。常陸国風土記の伝本には、「以下略」と記されて原本から削除された部分が多くありますが、行方郡は「省略なし」と注記されて、全体が残っています。そこからの抜粋です。面白みのある表現を含む文章は短くても残す一方、形式的な地名由来話や地誌は省くことが多くなります(例外あり)。
にわか雨の降る行方郡
行方郡と称する理由は、倭武天皇が天の下を巡幸なさって、霞ヶ浦の北の地域を平定なさり、この地を通り過ぎて行かれる折、槻野にある清い泉にお立ち寄りになりました。水際に近づいて手をお洗いになったところ、玉を井戸に落とされました。その井戸は今も行方の里にあり、玉の清井と称されます。
倭武天皇は車駕をめぐらして、現原の丘にお出ましになり、土地の神に食事を供え奉られました。その時、天皇は四方を眺望され、侍臣たちを振り返っておっしゃいました。
「輿を停めて歩き回り、目を上げて見渡すと、山々のひだが入り組んで重なりあい、入り江はうねうねと曲がりくねって続いている。峰は頭に雲を浮かべ、谷の腹には霧を抱いている。風光が愛らしく、土地の姿形にとても心を惹かれる。この地の名称を行細しの国(配置の精妙な土地)としよう」
後世、この事跡によって、行方と呼ばれるようになりました。当地では、「立ち雨(俄雨)の降る行方の国」と言い習わしています。
倭武天皇の行幸
その丘は高く開けているので現原と名づけられています。倭武天皇はこの丘から降って大益川にお出ましになり、小舟に乗って川を上られて行く時、棹と梶が折れたので、その川を梶無川と言います。川は茨城と行方、二つの郡の堺となっています。川には鯉や鮒の類が多く、全ての名を記すことはできません。
梶無川から国の辺境へ到達なさいますと、鴨が飛び渡って行きました。天皇は自ら矢を射たまい、すると鴨は弦の響きに応じて落ちました。そのため、この地を鴨野と言います。ここは土が痩せていて、草木が生えません。
郡の役所の周辺
郡の役所の西方の渡し場は、いわゆる行方の海(霞ヶ浦)にあります。海松と焼いて塩を取る藻が生えています。およそ海にいる多種多様な魚は、ここに載せ切れないほど多いのです。ただし、鯨鯢は昔から見聞きされたことがないようです。
郡の役所の西北には提賀の里があります。大昔、佐伯がいて、手鹿という名前でした。その人が住んでいたことから、後に里の名前にしたのでした。
提賀の里の北に香島の神子の社があり、そこからさらに北に曽尼の村があります。大昔、佐伯がいて、名を「そねびこ」と言いました。その名を借りて村の名前につけました。今、駅家が置かれています。これを曽尼の駅と言います。
常陸国5 解説
常陸国風土記では倭武天皇が「活躍」し、泉や井戸に関するエピソードが豊富です。行方郡も例外ではありません。「行細し」については、読み方も解釈も定説とまで言えるものはないようですが、それが行方の名の由来となったと記されています。
記事中の地名の現在の場所また推定されている場所は全て行方市玉造町内にあります。
湖である霞ヶ浦に鯨がいないという記述には滑稽味を感じます。霞ヶ浦は、奈良時代初期にはすでに内海だったようです。国司に上記の報告をした郡司は、外海とつながっていた古い時代を伝承で知っていたのかもしれません。とはいえ、当時まだ海につながっていた可能性、なきにしもあらず?
写真は平沢官衙遺跡。筑波郡の郡役所の跡で、行方郡のものではありません。柱跡から校倉造りの倉庫の大きさがしのばれます。常陸国の豊かさを示すものとして掲載します。