「幕末青春日記」に新マガジン 丸山通いの功罪
岩崎弥太郎が最初の長崎滞在時に記した日記「瓊浦日録」の紹介が3月分まで進んだので、1日から順に読めるようにマガジンにしました。下記のリンクから、どうぞ。日記に記載はありませんが、この3月に元号が変わり安政7年から万延元年になります(西暦1860年)。
3月の日記では、花街丸山の水に慣れた太郎が、遊蕩にふけったかと思うと反省し、なのにまた遊郭に繰り出し、また反省して……を繰り返しています。ところで、弥太郎が初めて西洋人と接点を持ったのは、この懲りない丸山通いのおかげ(?)でした。3月27日夜、花月楼の中をうろついていた英国人に出会い、なぜか翌日にその居宅へ行く約束ができたのです。
弥太郎は開港した長崎へ外国事情調査のために派遣されたのですが、清人との交際の機会は多かったものの、西洋人とはつながりを持つことができませんでした。それなのに、遊女屋で(恐らく)誰の助けも借りずに英国人と知り合いになりました。いつの時代でも、夜の街には人と人とを結びつける力があるようです。
「遊郭都市」長崎は特にそうした力が強く、鎖国時代にも外国に港を開いた後にも、貿易品や外国の情報を求めにやって来た人たちにとって、長崎の茶屋や妓楼は人脈を作り交際を深めるのに役立つ重要な場所でした。「長崎丸山、誘惑の引力」に書いたように、「聞役」に任ぜられた武士にとって妓楼は職場でもありましたし、土佐からの出張者の常宿が丸山の隣町にあったのは、そうした夜の町へのアクセスのためでもあったようです。
しかし、夜の街が危険な場所であることもまた、今も昔も変わりません(弥太郎は、丸山の入口の大門を「地獄門」と記しています)。少し前に大きく報道された、ホストクラブで客の女性が巨額の売り掛け金の罠にはまっていく経緯は、弥太郎が丸山に深入りして行く過程と実によく似ています。3月の日記には、弥太郎が莫大な額の浪費をするようになった様が詳述されています。この罠にかかるのは非常に楽しいことでした。
ところで、弥太郎にはホストクラブにはまる女性よりもまずい点がありました。金の出所の大半が土佐藩の公金だったことです。一方、罠に落ちた女性たちより救いがあったのは、自らこの罠から抜け出すのに必要な最後の自制心をなくさなかったことです。長崎出張の中断を自ら申し出、やがて許しが出る前に長崎を去っています。
もう一つ、弥太郎の救いになったのは、藩の上層部に彼の才覚に気づいて目をかけてくれる人がいたことでした。さらに、自らがつくりだした藩への「負債」の返済に関し手助けをしてくれる人もありました。ただし、これらは翌月(四月ではなく閏三月)以降に起こる出来事です。
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