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「西征雑録」完走、「幕末青春日記」完結

 久しぶりに「はるかな昔」を更新しようと下書き用ファイルを開いたら、前回書いた「失敗は防げるか」が目に入って恥じ入りました。失敗をしないよう「最善を尽くす」と書いたのに、その後も「西征雑録」(以下「雑録」)の紹介で何度も間違いを犯し、その都度訂正を余儀なくされたのです。

 今回は、「雑録」の紹介が終了し、「岩崎弥太郎 幕末青春日記」が完結したことをお知らせするための更新です。8月18日に最終回をアップし、その中で「青春日記」が完結したと記してから1週間が経ってしまいました。実は誤って一度最終回を削除してアップし直したので、最後の記事の日付は8月20日になっているのですが。最後まで失敗が続いたことになります。

「青春日記」の最初の記事である前書きをアップしたのは、去年の8月26日でした(日付が一年前の昨日なのは偶然です)。前書きで私は弥太郎の「二度の長崎赴任時代」の日記を紹介すると記しています。弥太郎の長崎時代の日記を全部対象にするつもりだったわけですが、最初の赴任期間とその前後の日記を紹介して終わることにしました。弥太郎の日記のユニークさや面白さは、最初の長崎時代の日記「瓊浦けいほ日録」(以下「日録」。および「雑録」)で十分明らかにすることができたと考えられるからです。

 弥太郎の記した「日録」に似た内容の日記は、当時も、それ以前にも存在しません。「日録」のような自らの生活と心情をリアルに綴る日記は、言文一致運動の後、口語体の文章が一般的になっていく明治後期以降に出現します。江戸末期、弥太郎は和文混じりの漢文体で口語日記のような内容を書いていたのでした(なぜそんなことになったのか、についてはいずれ考察する予定です)。

 この特色は弥太郎が書いた他の日記でも同様ですが、全てを網羅するとなると非常に分量が多く、紹介するのは数年がかりの仕事になりそうです。頭が何とか働いている内にまた小説を書きたい気持ちがあるので(書けるかどうかは不明ですが)、弥太郎については、しばらくこの「はるかな昔」の中でまとめと考察をして完結とすることにしました。

「幕末青春日記」でアップした記事は67、内二つは前書きと告知でしたから、弥太郎の日記の紹介は65記事ということになります。その中から弥太郎らしい特色が際立つ記事を三つ厳選し、下にリンクを示します。安政六年一月下旬から二月初めにかけて、弥太郎が長崎の花街丸山に足を踏み入れて右往左往しつつ、次第に「成長」していく様がありのままに記されています。

 また、「西征雑録」の記事を、弥太郎が書いた日付の順で読むことができるよう二つのマガジンにまとめました。前編は「瓊浦日録」の前段にあたり、弥太郎が高知から長崎へ到る旅と、長崎到着後最初の一ヶ月間の日記です(安政六年十月から十二月まで)。後編は「日録」の後段で、長崎を発って高知に帰着し、旧知と交流する傍ら、長崎での不首尾の始末に終われ、結局故郷安芸あきに戻って暮らし始めた記録です(万延元年うるう三月から六月まで。日記は七月まで書かれていますが、内容に面白みがなく割愛しました)。


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