万葉の時間旅行者
常陸国風土記の現代語訳を始めるにあたって、私は原典に忠実な訳をすると約束し、ほぼその通りにしたつもりです。それでも数カ所、<現代語訳で参照した文献>のどれからも外れる訳をしています。たとえば、12の川の情景(原文では「白砂亦鋪翫波之席」)、上記の文献では大抵「川底の白砂のむしろが波をもてあそぶ」といった訳文になっています。
私は「川底の白砂は、川波に戯れて揺れる敷物のよう」としました。既存の、川底が波をたてるというような訳は不自然なので、水面で波が立ち、それが光を通して川底に映ったとものと考えて訳し変えたのです。ここは、風土記の中でも、情景描写と人々の楽しむ様子が融合する希有の場面として「愛して」いるので、既訳には満足できませんでした。
既訳にも訳者の解釈が入っています。ならば私の訳も成り立つと考えました。ただし、「白砂の川底」が現実を写したものなのか疑問はあります(山間を流れる川の底が白砂ということはあり得るか?)。この時代の日本人の文章に中国語の原典があるのは普通のことで、書き手は時に現実より「お手本」を重視しました。この部分について原典があるという指摘は見当たらないのですが、常陸国から朝廷に出す報告をまとめたのは、中国の原典を元に文章を紡ぎ出す術を身につけた高位の役人(たち)でした。
実は1の倭武天皇が清い水で手を洗う場面も、私訳は参照した文献から外れています。私は、書店で風土記冒頭を初めて目にして以来ずっと、ここで倭武が「水を翫だ」ものと解しています(原文は「翫水洗手」)。既訳はどれも、「翫」の字を「めでる」「ほめる」など湧き出た水を賞讃したという意味に取っています。私としては、是非とも「もてあそぶ」であってほしい。孤独な倭武が湧き出た水に触れる場面を、私はこの文章を通して「目撃」し、そのことに深く感動したことが風土記を読む経験の原点だからです。
「翫」は、漢和辞典では「もてあそぶ」を主要な字義としています。しかし、風土記学者は、「文選」という漢文お手本集の注釈を元に、漢和辞典には(恐らく)出て来ない賞讃の意味を定説としているのです。私はこのことに気づいて、自分の読みが間違っていたのかと心配になりました。ところが、上記の文献リスト作成後に、歴史学者志田諄一氏が著作で「もてあそぶ」と訳しているのを発見しました。少なくとも、成り立たない訳ではなさそうです。
リストにあげた既訳は全て国文学者によるものです。彼らはなぜ一般的でない賞讃の意味を採用したのでしょうか? 常陸国風土記では、倭武天皇が清い水を褒める場面が茨城郡の回にもある(私訳では省略)ことから、「翫」を褒めるの意とする文選の用例を見つけ出したのかもしれません。しかし、茨城郡で賞讃の意味に用いたのは「能き」というストレートな表現であり、「翫」のように難しくありません。一方、上記12でも、「翫」は「もてあそぶ」の意味で使われています。
「もてあそぶ」で意味の通る文を、無理にも(?)賞讃と解するのはなぜなのか? 考えると不思議です。私の見解は、「もてあそぶ」とすると、この文章が動作を描写していることになり、それを避けたのではないかというものです。散文で人の動作を描くことは、古代では「あり得ない」文章作法なのです。そもそも、太昔には、世の東西を問わず、散文による描写自体がほぼ存在しませんでした。
中東地域の「人物」であるイエス・キリストや母マリアをヨーロッパ系の白人としてイメージ可能なのは、聖書が容姿を描写していないからです。中国美人の代表、楊貴妃の姿は、ただ腰が細いことのみ有名です。やがて文章による風景描写が登場し、常陸国風土記の書き手は、中国の情景を描いた文章を元に常陸国の景色を記しました。動作の描写が普通になされるようになるのは、それよりずっと後、近代以降のことです。
では、やはりここでは倭武は水を賞讃したと解釈すべきなのでしょうか? その前の文章を見てみましょう。倭武は「時に乗輿を停めて、水を翫で手を洗ひたまひしに」とあります。何と、倭武が乗っていた輿を停めさせ、水で手を洗うまでの一連の動作が文章化されているではありませんか。しかも、この前に倭武は「尤好愛しかりき」と水を褒めているので、再び賞賛したと記す必要があったのか疑問です。
この文章には、倭武や一行のイメージを彷彿させる喚起力があります(少なくとも、私には強く働きかけて来ました)。動作の描写があり得ない時代に、喚起力の強い描写を書くことができたのはなぜでしょうか? こうした文章が可能になるためには、報告書を記す役人として中国由来の言葉で文章を書く力を持つ一方、当時の文章の常識を超える特異な才能が必要とされたはずです。ちょうど、万葉歌人の中で一人だけ周囲からかけ離れた境地の歌を作った山上憶良のように。
常陸国風土記の重要な書き手として、私の意中にある「特異な」才能を持つ候補者は、実は、憶良と共に、同じ日に貴族の位に列せられています……話が飛躍しました。次回は、だれが常陸国風土記を書いたのか、歴史的な事実を確かめるところから始めましょう。
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