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風土記の地名物語――常陸国6
行方郡の2回目は、蛇を神格化した夜刀の神の話です。風土記にしては珍しく時系列に沿った展開がみられ、神秘的な夜刀の神や、見るなのタブーなど、神話的な物語になっています。稲作農耕の広がり、宗教や民俗の側面から見ても示唆的です。
夜刀の神――頭に角のある蛇
古老が次のように語ります。継体天皇の御代(6世紀初め)に、箭括氏麻多智という人がいました。郡役所の西方にある谷の葦原を開墾し、新たに田を造成しました。
この時、夜刀の神が群れを率い、みな一緒になってやって来て、あれこれと妨害を行い、田の耕作をさせませんでした。
(当地では、蛇を夜刀の神と言います。夜刀の神は身体は蛇なのですが、頭に角があります。一族で打ち揃って災いから逃れようとする時、中に夜刀の神を見る人があると、その人の家門は滅びて子孫があとを継ぐことはありせん。この郡のあらゆる野原に非常に多く棲んでいます)
ここで、麻多智は大いに怒りの情を起こし、甲鎧を着けて自ら杖を取り、夜刀の神を打ち殺して駆逐しました。そうして山の登り口まで追い立てると、柱を標として境界の堀に立て、夜刀の神に告げました。
「ここから上は、神の土地とすることを許そう。ここから下は人が田を作る。今より後、吾は神を祀る者となって、永遠に敬い奉るとしよう。願わくは、祟らないでもらいたい。恨まないでもらいたい」
そう言って社を作り、初めて夜刀の神を祭ったと言われています。また、田を十町あまり開いて、麻多智の子孫が代々受け継いで祭りを執り行い、今に至るまで途絶えることがありません。
夜刀の神の再来と退散
その後、孝徳天皇の御代になって(7世紀半ば)、壬生連麿が初めてその谷を独占して、池に堤を築きました。その時、夜刀の神が池のほとりの椎の木に昇って集い、去ろうとしませんでした。
そこで、麿は声を上げて叫びました。
「この池を修築したのも、(かつて麻多智が)お前たちに約束させたのも、民の生活を良くするためなのだ。どこの、何という神が、大君のお示し下さる教え導き(風化=皇化)に従おうとしないのか」
麿は、ただちに使役していた人々に命令して言いました。
「目に見える雑多なもの、魚や虫の類は、ためらったり恐れたりせずに、ことごとく打ち殺せ」
麿がそう言い終わると、神蛇は逃げて姿を隠しました。その池を椎の井と名づけています。池の西に椎の木があり、清い泉が湧き出ていて、その井戸にちなんで池の名としました。ここは、香島に向かう陸の駅道にあたっています。
常陸国6 解説
二つの話は、現在の行方市域での出来事として語られています。このことから、当地で田を作り稲作を始めようとした際に、大きな困難のあったことがうかがえます。夜刀は、谷間の湿地帯である谷戸に通じます。
困難とは、開拓者の侵入で土地を奪われる先住民の抵抗でもあれば、土地に手を加え農地へと変える農耕文明の導入が、それまでの「自然」を壊したために生じた土地災害や、作物への虫や鳥、獣などの害のことでもあったでしょう。
そうした諸々の「抵抗」を、時には敵対者をも神として祀り、時には強圧的な手段で抑えつつ開墾は進められます。やがて、この「文明化」が大和朝廷と結びついた時、壬生連麿はその動きを「風化」(皇化)と称したのです。とはいえ、上記の物語には土地や自然への深い畏怖の念が感じられ、そのために血生臭い展開が抑制されたと察せられる点には慰めがあります。
物語中で人間を害する蛇は、旧約聖書のエバへの誘惑の場面がそうであるように、現実ではなく象徴的な存在に見えます。ところで、「歴史の父」古代ギリシアのヘロドトスは、『歴史』の中で、ギリシア北方に住むネウロイ人が蛇の蹂躙によって国を捨てて逃げたと記しています。文明以前の人々にとって、蛇は、特に集団である時、実体のある恐ろしい「敵」だった可能性がありそうです。
写真の谷戸は、残念ながら行方市ではなく横浜市北部です。