風土記の地名物語――常陸国7
行方郡の最終回。今回はかなりカットします(事情は解説で述べます)。舞台となるのは現在の行方市や稲敷市など、霞ヶ浦周辺の西の地域。上の写真は稲敷市の浮島公園から撮影したもので、対岸が行方市にあたります。
行方市麻生町の南の「鯨岡」に、「大昔、海鯨がはらばって来て伏せた」とあります。霞ヶ浦から少し内陸に入った所にあたり、鹿島灘からは遠いので、「海鯨」は霞ヶ浦から来たことになります。霞ヶ浦が海につながっていた時代の記憶が残っていたのでしょうか?
煙の行方で敵味方を知る
古老が次のように語りました。崇神天皇の御代に、東国の辺境に住む荒ぶる賊を平らげようと、那賀の国造の始祖となる建借間命が遣わされました。命は軍勢を率いて、悪者たちを攻略しました。
安婆の島で野営をして、海の東の方にある浦をはるかに眺めました。その時、煙が見えたので、あそこに人がいるのではないかと疑いました。建借間命は天を仰いで、誓祈しました。
「もしあれが天人(天皇の味方である人々)であれば、煙はこちらに来て私を覆うがよい。もし荒ぶる賊の煙であれば、去って海の方にたなびけ」
するとその時、煙は海に向かって流れました。それで自然に凶暴な賊がいることがわかり、従っている人々に命じて、早目に朝食を摂り(戦をしようと)海を渡りました。
建借間命の計略
この時、名を夜尺斯と夜筑斯という二人の国栖(常陸国の先住民を蔑しんだ言い方)がいました。自ら首領となり、穴を掘って堡を造り、いつもその穴の中に居住していました。天皇の軍を狙って動向をうかがい、身を潜めて守りを固め、攻撃を防いで抵抗しました。
建借間命が兵を放って追いかけさせると、賊はみな逃げ帰り、堡を閉ざして固い守りに入りました。突然、建借間命は大きな策略をめぐらしました。決死隊の兵士を選び出し、山ひだの陰に潜ませて、賊を攻め滅ぼすための武器をつくり準備させました。
渚に厳そかな飾り物をし、舟を連ねて筏を組み、蓋を雲のようにひるがえらせて、虹色の幡をはためかせました。天の鳥琴、天の鳥笛は、波のまにまに、潮を追うように鳴り響きます。杵を打ち鳴らし曲を歌って、七日七晩、遊び楽しみ、歌い舞い続けました。
その時、賊たちは盛んに音楽が鳴り渡るのを聞いて、男も女も家を挙げてみんな出て来て、浜をゆるがせるほどに群がって喜び笑いました。建借間命は命令をして、騎馬の兵士に堡を閉じさせ、背後から襲って、ことごとく凶徒を捕らえ、全員を一度に焼き殺してしまいました。
倭武の后、大橘比売
古老が次のように語りました。倭武天皇は相鹿の丘前の宮にお出でになった時、炊事用の建物を浦の浜辺に建て、小舟をつなぎ合わせて橋とし、御行在所に食事を運ばせるようにしました。それで大いに炊くという意味を取って、大生の村と名づけました。
また、倭武天皇の后である大橘比売命が、倭より下って来て、この地で天皇とめぐりあわれました。それで、安布賀の邑と言っています。
常陸国7 解説
常陸国風土記は、この辺り、禍々しく後味の悪い話が目立ちます。建借間命の計略の後の部分には、「(敵を)痛く殺すと言ったから伊多久の郷」などという血生臭い地名起源話が続きます。
藝都の里の話では、国栖の兄を「無礼打ち」されて恐怖した姉妹が、雨風を厭わず、「慇懃」に奉仕し、天皇がこれを喜んで慈しんだ(恵慈しみ給うた)ために、「うるはしの小野」と呼ばれるようになったとあります。
これらは、断片的で単調な地名起源の話と共に省略しました。関心のある方はぜひ原典にあたってみてください。
倭武の話が、行方郡の最終話です。記紀に登場する弟橘比売は、ヤマトタケルのために荒れた海に身を投じますが、これはヤマトタケルが東国に来る以前の悲話です。大橘比売と弟橘比売が同一人物なら、この悲劇はなかったことになりそうです。私はそうであってほしい……?