時間旅行者の肖像
春日蔵首老を常陸国風土記の重要な書き手として捉えるとすると、その生涯のエポックは和銅7年(714年)、従五位下として叙爵された(貴族となった)ことと考えられます。勅撰漢詩集懐風藻では、老の五言絶句に添えて常陸介と紹介されています。常陸国のような大国の介=次官は、従五位下以上の位が必要だったようです。
老は貴族の家系ではなく、彼が叙爵されたのは漢文や詩歌など文人としての評価の高さ故に違いありません。万葉集に、僧弁基時代の「河上の つらつら椿 つらつらに 見れども飽かず 巨勢の春野は」の歌と共に、坂門人足の派生歌(後出)が収められていることからも、当時の声価がうかがわれます。朝廷が律令国家の整備に邁進していた時期(8世紀初頭)、漢文の能力の高い人材が登用され(山上憶良もその一人)、恐らく新羅への留学僧の経歴を持っていた老は、702年に朝廷から還俗を命じられ、追大壱の階位(48階位中の33番目)で官界に入ったのでした。
和銅6年(713年)に各国の国司に報告を求める詔が出た翌年、老が正六位上から従五位下として叙爵したのは、常陸介としてその編纂の任にあたるためだったと解釈できるでしょう。任国がなぜ常陸国だったのか、ブログでは当時の国司の引きによると想像したのですが、根拠はありませんでした。今は、藤原氏との関係によって、と推測します。
常陸国との行き来の間に老が作った一首が万葉集に収められています*2。任国での作は知られていませんが、私は常陸国風土記の散文の中に老の手跡を見出したのでした。まず初めは、すでに何度も触れた倭武天皇が泉の水で手を洗う場面。輿を停め、流れる水をもてあそぶ倭武を描くことで、「袖が水に漬る」という常陸国の名の謂われと共に、一人の孤独な皇子の姿を写したのでした*3。水を素材にし、孤愁を漂わせる表現は、私のみるところ詩人老のしるしなのです。
私は老を「水の詩人」と勝手に呼んでいます。万葉集の八首と懐風藻の一つの漢詩の内、六首が水とかかわっています(個々の作品はブログをご覧ください)。水や海、川は詩歌の重要な素材であり、また他者が選択したものではあるのですが、一人の作品の素材がここまで片寄るのは尋常ではありません。少なくとも、老は水と関連して詩想が豊かに発揮される詩人である、くらいは言えそうに思います。常陸国風土記に泉水の湧き出る井戸の発見の逸話が多いことについては、治水の面などから論じられていますが、私には老の「個性」の発露のようにも見えるのです。
藤原定家が万葉集から新勅撰和歌集に選んだ「真土山 夕越え行きて 盧前の 角太河原に ひとりかも寝む」もまた、河原での独り寝という孤独と水の結びついた歌でした。西行の「年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山」の歌など、孤独を歌うことが時代の詩想から遠いものではなくなっていたことをうかがわせますが、万葉の時代に孤独な我が身を描くことは例外的だったはずです。
弁基(老)の「つらつら椿」の歌と、人足の派生歌「巨勢山の つらつら椿 つらつらに 見つつ思はな 巨勢の春野を」を比べてみて下さい。弁基は、ひとり時間を忘れて椿を見つめています。一方、人足は、この景色は、つらつら椿と歌われた巨勢の春野を思わせますね、と旅(太上天皇(持統)の御幸)の同行者に呼びかけているのです。詩歌は共同体の存在とかかわって育まれて来たものであり、奈良時代にはそうした「伝統」が、題材や表現の仕方において詩人たちを束縛していました。また、老の懐風藻の漢詩が流曲水の宴を歌ったものであるように、詩歌は社交の道具でもありました。
しかし、老は、そうした伝統の内に生きながら、束縛の外に立てる人でした。私が時間旅行者にたとえる由縁です。常陸国風土記の倭武と泉水の場面、動作の描写によって孤独を表すという時代を超える表現を成し遂げた……初めてこの文章を読んだ時の感動から発して、私はそうした考えに辿り着いたのでした。
老の時間旅行者ぶりは、上記に止まるものではありません。彼は素のままの民衆を描くという、他の風土記には殆どみられない表現も行いました。次回、民衆を苦しみを歌にしたもう一人の時間旅行者、山上憶良も視野に入れつつ、さらに老の詩想を探りたいと思います。