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長崎奉行の家来、男装の元遊女とお伊勢参りへ

 長崎奉行行本多正収まさときの家来が、丸山の元遊女と「欠落かけおち」する際に男装をさせて同行したものの、露見して叱責されたという一節が「天保風説見聞秘録」にあります。駆け落ちは本当だったとしても、男装は無理があるようにも思うのですが、塩漬け死体の処刑が本当だったのですから、これも疑うのはやめておきましょう。原文はおおむね以下の通りです。

 主君の伊藤半右衛門に伊勢参宮へのお供を命じられた惣之助は、たき(元遊女「舞袖」)を目立たないよう若衆にして内々に連れて行ったところ(見破られてしまい)、惣之助が女を召し連れているのは以ての外どころではすまない、と半右衛門は厳しく申しつけた……。

「天保風説見聞秘録」『未刊随筆百種 第9』。書誌は前回参照。

 主君のお供をするのに、男装した元遊女を同行するという危険をなぜ犯したのか不思議です。その誘因は、恐らく半右衛門が長崎奉行一行と別れて伊勢に寄り道したことにありそうです。半右衛門の伊勢行きには公的な目的があったかもしれませんが、長崎での役目を終えた後の一行には物見遊山の浮かれた気分が蔓延していたことでしょう。公務の余得で、誰もが一度は行きたいお伊勢参りができることになったのですから。

 主君の共をするのに、たきをどこかに一時的に留め置くより、同伴する方が難しかったとは到底思えません。たきが自分もお伊勢参りがしたい、と惣之助に頼んだと考えるのが自然です。長旅の途中、長崎にいては到底実現できない思いがけないチャンスが到来したのです。前髪のある若衆の恰好をすることは、丸山の遊女にはお手のものだったとも考えられます。江戸吉原で遊女が祭礼などで男装をする有様は、浮世絵などで見ることができます。

 トップ画像は青樓せいろう吉原年中行事』喜多川歌麿画、十返舎一九著。享和4年、1804年)より「仁和哥にわか之図」。八月恒例のにわか芝居(狂言)で吉原の遊女たちが演じる様が描かれています。印刷用の挿絵ですが、歌麿の描く男装の女性たちの何と魅力的なこと。

東京大学総合図書館蔵

 では、惣之助の方はどんな心持ちだったのでしょうか? はるか遠い長崎から連れ出したたきの願いを実現させてあげたかったのは、惣之助の深い愛情の表れでしょう。一方で、惣之助は事の危険性を軽視したのかもしれません。長崎奉行本多正収のゆるい統制に馴れた家来たちの間で、長崎から遊女を連れ出したともがらがいることは噂になっていたと思われます。が、誰も咎めようとはせず、伊勢に向かう惣之助の気分は、たきの若衆姿の美しさにさらに盛り上がった……そんな情景すら思い浮かびます。

 先ほど私は、男装の件で吉原から丸山を類推しましたが、両者には共通する面がある一方で、よく知られた吉原の「常識」から丸山を推し測ると間違うこともあるようです。長崎の活水女子大学教授赤瀬浩氏は、丸山遊郭では遊女の出入りが自由だったこと、近隣地域から妓楼に奉公に出る者が多く、遊女となった後も里帰りできたこと、年季が開けると実家に戻ったり、良い相手がいれば結婚、出産ができたこと、また「欠落」をした遊女が何事もなかったかのように妓楼に戻ることもあった、と指摘しています。厳しい掟に遊女が支配される吉原とは大違いでした。

 赤瀬浩 「長崎丸山遊女の出自と年季明け」『長崎学』、長崎市長崎学研究所、2019年。『長崎丸山遊郭 江戸時代のワンダーランド』講談社現代新書、2021年。

 正収の家来たちとの駆け落ちの背景に、こうした寛容さがあったとすると、長崎を出奔した女性たちには、吉原から逃走を図った遊女が残酷な折檻を受ける――といった周知のイメージから想像されるほどの悲壮感はなかったかもしれません。とはいえ、長崎奉行の家来たちと丸山の遊女らの行動は関所破りへとつながり、許されない罪科となりました。双方の愛着に始まったであろう道行きは、最後は関係者全員が処罰を受けるという悲劇に終わったのでした。

 ……前に何度か、岩崎弥太郎が丸山に深入りした経過をまとめると記しながら、一向に実現しません。今回も私は寄り道をしています。遊郭は奥深い世界だと分かって来て、もう少し調べてから書こうと思い直したのです。遊郭についてはただの素人ですから、多少頑張って調べたところで限界があるのは分かっているのですが、気の済むまでやらないではいられません……難儀な性分です。

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