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風土記の地名物語――常陸国8

 香島郡かしまのこおりの第1回です。県南部太平洋側の地域。茨城県の地域区分は、他は県央、県南などと散文的なのに、ここだけ鹿行ろっこうという素敵な呼び名です。常陸国風土記では、まず香島郡の位置を記述、ここに鎮座する香島(鹿島)神宮から香島郡と名づけられたという由来を述べた後、天地開闢かいびゃくの神話から香島の大神の降臨へとつなげます。

 香島の大神の降臨

 天となるべき清らかな気と、地となるべき濁った気とが混じりあい、まだ天と地がひらけ始めるより前、諸々の神々の先祖である天神あまつかみたち(当地では「かみるみ」「かみるき」と言います)が、八百万やおよろずの神々を高天原たかまがはらに集めて、こうおっしゃいました。

今より、わが御孫みまごみことが治めることになる豊葦原とよあしはら瑞穂みずほの国

 こうして高天原よりお降りになった大神は、名を香島のあめの大神と申します。天(高天原)では日の香島の宮と名づけ、地(常陸国)では豊香島とよかしまの宮と名づけます。当地では、こんな風に言われています。

(八百万の神々が)豊葦原の瑞穂の国を献上し奉ろうとおっしゃられた時に、「荒ぶる神たちや、石や木立、草の葉までもが言葉で語りあい、昼には五月の蠅のようにうるさく騒ぎたて、夜には怪しい光が明るく輝く国である。これを従わせ、平定する大御神おおみかみ」とおっしゃるので、(香島の大神は)天から降って皇孫にお仕えしました。

 舟を自在に動かす天の大神

 天智てんじ天皇の御代みよになって、初めて使いの人を派遣して、(香島の大神の)神殿を造らせました。その時以来、絶えず修理や改築をして来ました。毎年七月には、舟を造って香島の大神の別宮である津の宮に奉納します。古老はこう言っています。

 倭武天皇やまたけるのすめらみことの御代に、天の大神が「今すぐ御舟を奉納しなさい」と中臣なかとみ巨狭山命おおさやまのみことに御託宣なさいました。命が答えて言います。「つつしんで御命令を承りました。あえて断ることなどありましょうか」

 天の大神は夜明けにもご託宣なさいました。「お前の舟を海中わたなかに置いたぞ」それで舟の持ち主の巨狭山命が見たところ、舟は丘の上にありました。

 また、ご託宣がなされました。「舟は丘の上に置いたぞ」舟主である巨狭山の命が探してみると、舟は海中にありました。

 このようなことが起こったのは二度や、三度ではありませんでした。それで命はおそれかしこみ、新たに舟を三隻、それぞれ二丈あまり(4メートルほど)のものを造らせて、初めて津の宮に献上したのでした。

 また、毎年四月十日には祭りを行い、酒宴を催します。卜氏うらべうじの一族が男も女も集い、何日も何日も、昼も夜も、酒を飲んで楽しみ歌い舞います。唱われる歌は、このようなものです。

 新しい御神酒おみきを、飲め、飲めと勧められたからでしょうか。私はすっかり酔ってしまいました。(あらさかの 神のみ酒を たげたげと 言ひけばかもよ 吾が酔ひにけむ

 常陸国8 解説
 香島の大神の降臨の経緯の後に、大刀やほこ、馬やくらなど献上物のリストが記されます。古老が語るところによれば、崇神天皇が、大八島おおやしまの国(日本)を治めるようにしようという託宣を香島の大神から受け、大変に驚いておそれかしこみ、奉納したのだそうです。
 この辺り、難しい用語や、切り詰められて分かりにくい記述が多く、これまでのみ下し文を元に訳していく方法が通用しませんでした。このため、既存の訳を複数参照して訳した箇所が少なくありません。専門家でない人間の限界ですが、大きな間違いはないように努めました(つもりです)。
「舟を自在に動かす天の大神」では毎年四月十日には祭りを行うとありますが、鹿島神宮では十二年に一度、九月に御船祭りが行われます。写真はWikipediaの「鹿島神宮」の項から借用しました。

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