自ら料理し、味にうるさい下級武士の話
幕末、長崎で土佐商会を差配していた岩崎弥太郎が、贈られた松魚を肴に腹心の土佐藩士と酒盛りをしようとしています。当時の長崎港は外国貿易の中心で、全国の雄藩が外国商人から蒸気船や武器弾薬を購入しようと拠点を設けて活動していました。長崎は揺れ動く日本のホットスポットでした。
長崎に駐在していた武士の多くは単身赴任で、ここに登場する三人も同様です。岩崎弥太郎は好物の松魚を、市場や物売りから買い求めて部下に調理させていました。この時は「安吾と共に手ずから料理した」とあるので、自ら捌くこともあったと思われます。弥太郎は後の三菱創業者ですが、当時は商会の主任格であっても、武士としては最下級の郷士という身分でした(安吾は、二ヶ月後、英国人水兵斬りつけ事件を起こして土佐に帰されます)。
男子厨房に入らず、とか、男が料理の味を云々するのは恥ずかしい、とか、そんな「常識」を持つ人は最近までいました。私は古くから続く日本の規範的な考え方だろうと何となく思っていましたが、江戸時代から維新期の各種の日記を読むうち、下級武士の男性が台所仕事をしたり、食事のメニューを事細かに記録したり、食物の味についてあれこれ言ったり、といった記述を少なからず目にすることになりました。
「厨房に入る男」や「味にうるさい侍」は、近代以前に普通にいたことになります。で、私は、上記のような堅苦しい「規範」は、明治以降に形造られた可能性があると考えるようになりました。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは「古くから受け継がれてきたと思われている「伝統」の多くは,実は近代になってから人工的に創られた」と著書『創られた伝統』で指摘しています。タータンチェックの柄と特定の氏族の結びつきは近代の織物業者が捏造したもの、とか。
「男子厨房に入らず」や「男が料理の味を云々するのは恥ずかしい」というのも、「創られた伝統」の一例なのかもしれません。過去の日記を網羅的に調べていないので断言はできませんが、前者の「厨房に……」については(本来の語源は別として)、上級武士の暗黙の了解だったものが、明治以降にある種の道徳的規範として庶民化されたように思われます。
上は、内政、外交に功のあった幕末の幕臣川路聖謨が、佐渡に赴任する際の旅日記の一節です。聖謨は、長崎赴任時にロシア船に招かれた際の食事も詳しく記録しています(「長崎日記」)。彼は上級の武家出身ではなく、貧しい出自ながら後に異例の出世をして幕閣となりました。名門の出だったら、上のような日記は残さなかった……かもしれません。
下は、幕末の名文家として名高い林鶴梁が用意したある日の宴席メニューです。『ある文人代官の幕末日記 林鶴梁の日常』(保田晴男、吉川弘文館、2009年)には、こうした詳しい食事の記録がいくつも記されています。ここまで細かな記録は、美食への嗜好の強い現代日本でも、なかなか……。彼も最下級の武家の出で、後に旗本へと出世します。
無名の武士の日記も見てみましょう。『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』(青木直巳、ちくま文庫、2016年)は、紀州和歌山藩の下級武士酒井伴四郎が江戸に単身赴任した際の生活について、食を中心に記しています。著者は「江戸時代の男性は料理などしないと思っていた」けれど、そうではないと知って、同書に「男子厨房に入る」という章を立てています。
記事トップと上の絵は『新訂幕末下級武士の絵日記』(大岡敏昭、水曜社、2019年)より。忍藩(埼玉県行田市)の下級武士尾崎石城がつけていた絵日記を紹介するカラー版です。私は歌川広重の風景画が大好きなのですが、彼の描く人物は雑でちょっと残念。一方、石城は画家として無名に近いものの、その人物スケッチは非常に魅力的です。
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