見出し画像

自ら料理し、味にうるさい下級武士の話

 幕末、長崎で土佐商会を差配していた岩崎弥太郎が、贈られた松魚かつおさかなに腹心の土佐藩士と酒盛りをしようとしています。当時の長崎港は外国貿易の中心で、全国の雄藩が外国商人から蒸気船や武器弾薬を購入しようと拠点を設けて活動していました。長崎は揺れ動く日本のホットスポットでした。

七月八日 ……暑中の見舞いとして松魚を一本もらったので、森田晋三と田所安吾に言いつけて、建物の二階で、安吾と共に手ずから料理をし、三人で飲んでいたところ……(慶應三年(1867年)「瓊浦けいほ日歴 其の一」。私訳)

『岩崎彌太郎日記』岩崎彌太郎 岩崎彌之助 傳記編纂会、昭和50年

 長崎に駐在していた武士の多くは単身赴任で、ここに登場する三人も同様です。岩崎弥太郎は好物の松魚を、市場や物売りから買い求めて部下に調理させていました。この時は「安吾と共に手ずから料理した」とあるので、自らさばくこともあったと思われます。弥太郎は後の三菱創業者ですが、当時は商会の主任格であっても、武士としては最下級の郷士ごうしという身分でした(安吾は、二ヶ月後、英国人水兵斬りつけ事件を起こして土佐に帰されます)。

 男子厨房ちゅうぼうに入らず、とか、男が料理の味を云々するのは恥ずかしい、とか、そんな「常識」を持つ人は最近までいました。私は古くから続く日本の規範的な考え方だろうと何となく思っていましたが、江戸時代から維新期の各種の日記を読むうち、下級武士の男性が台所仕事をしたり、食事のメニューを事細かに記録したり、食物の味についてあれこれ言ったり、といった記述を少なからず目にすることになりました。

「厨房に入る男」や「味にうるさい侍」は、近代以前に普通にいたことになります。で、私は、上記のような堅苦しい「規範」は、明治以降に形造られた可能性があると考えるようになりました。イギリスの歴史家エリック・ホブズボームは「古くから受け継がれてきたと思われている「伝統」の多くは,実は近代になってから人工的に創られた」と著書『創られた伝統』で指摘しています。タータンチェックの柄と特定の氏族クランの結びつきは近代の織物業者が捏造したもの、とか。

「男子厨房に入らず」や「男が料理の味を云々するのは恥ずかしい」というのも、「創られた伝統」の一例なのかもしれません。過去の日記を網羅的に調べていないので断言はできませんが、前者の「厨房に……」については(本来の語源は別として)、上級武士の暗黙の了解だったものが、明治以降にある種の道徳的規範として庶民化されたように思われます。

けさ今朝もあらめ(荒布=昆布)にかつお節の汁、鮎の煮びたし、なすに貝わり(割菜)と椎茸の露物つゆもの。味よろし。今夜は……うなぎのみそ漬也。珍敷めずらしき事。ひるは玉子焼のさらに新(荒)いもにゆずかけたるは都ぶりなり。(「島根のすさみ」天保11年(1840年)6月15日)

『島根のすさみ 佐渡奉行在勤日記』河田貞夫校注、平凡社東洋文庫226、昭和48年

 上は、内政、外交に功のあった幕末の幕臣川路聖謨かわじとしあきらが、佐渡に赴任する際の旅日記の一節です。聖謨は、長崎赴任時にロシア船に招かれた際の食事も詳しく記録しています(「長崎日記」)。彼は上級の武家出身ではなく、貧しい出自ながら後に異例の出世をして幕閣となりました。名門の出だったら、上のような日記は残さなかった……かもしれません。

 下は、幕末の名文家として名高い鶴梁かくりょうが用意したある日の宴席メニューです。『ある文人代官の幕末日記 林鶴梁の日常』(保田晴男、吉川弘文館、2009年)には、こうした詳しい食事の記録がいくつも記されています。ここまで細かな記録は、美食への嗜好の強い現代日本でも、なかなか……。彼も最下級の武家の出で、後に旗本へと出世します。

マグロ、イナダ、硯蓋すずりぶたクワイ・カマボコ・クルミ・コウタケ・エビ、ドンブリインゲンカラシ合・同断キウリモミ・マグロノ三杯ズ、大平おおひら切身・ハンペン・ハリナ・クワイ・シイタケ・ハサシ、ドンブリコブ ・エビ、吸物ミソアジ、同断スマシ・マツタケ・チソノモヤシ、飯の節香の物キウリ、蕃椒とうがらし

 無名の武士の日記も見てみましょう。『幕末単身赴任 下級武士の食日記 増補版』(青木直巳、ちくま文庫、2016年)は、紀州和歌山藩の下級武士酒井伴四郎ばんしろうが江戸に単身赴任した際の生活について、食を中心に記しています。著者は「江戸時代の男性は料理などしないと思っていた」けれど、そうではないと知って、同書に「男子厨房に入る」という章を立てています。

十月一日 終日雨天、昼にごもくずしをつくるのに、具はみな私が切り、煮つけなどをして、飯を焚きかけていたら、直助が焚くというので任せたところ、大いに不出来な飯を焚いた。すしは大いに良くない塩梅あんばいになったけれど、仕方なく食べた。私に任せていれば良いすしになったのに。(同書本文を参考に私訳。直助は大石直助という従者。この後、焼き豆腐や買い置きの鮭で酒を呑み、昼飯の残りのこげを焚いて同宿者との夜食にしている)

 記事トップと上の絵は『新訂幕末下級武士の絵日記』(大岡敏昭、水曜社、2019年)より。おし藩(埼玉県行田市)の下級武士尾崎石城せきじょうがつけていた絵日記を紹介するカラー版です。私は歌川広重の風景画が大好きなのですが、彼の描く人物は雑でちょっと残念。一方、石城は画家として無名に近いものの、その人物スケッチは非常に魅力的です。

 トップの絵は、豆腐田楽を主菜とする「田楽酒宴」を友人と行った時の様子。石城は帯を質に入れてまで金を作り、まぐろの刺身などの肴を用意しました。上の絵は行きつけの料亭での酒宴。日記は文久元年(1861年)六月から翌年四月まで記されています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?