長崎奉行、秘密の「大事件」
1.本当にあったことなのか?
文政12年(1829年)11月、長崎奉行本多正収が江戸に戻る際、家来たちが長崎で深い間柄になった遊女や素人女性を秘かに連れ帰ろうとしました。これが発覚し、総計22人が関所破りの咎で重い処罰を受け、正収は閉門とされました。
私はこの事件を、最近読んだ『日本交通史』(平成4年)中の渡辺和敏「関所と番所」によって知りました。こんなことがあったのかと驚いて調べようとしたものの、同論文には出典が記載されていません。長崎の識者に史料を知らないかと問い合わせると、なんと初耳との答え。長崎奉行に関して書かれた書物にも、私が見た限りではこの事件は全く触れられていません。本当にあったことだろうか、と疑いを持ち始めました。
同論文には、女性を故郷の安房国に連れ帰った矢七が「病死」した後に死体を塩漬けにされ、新居関所に送られて磔にされたという一節があります。事件当事者の下級の家来が全員「病死」という話も含め、とても本当のことのように思えませんでした。ネット上で一番詳しい情報は下記のページにあり、新居関所史料館(静岡県湖西市)の資料によると記載されていたので、同館に史料について問い合わせをしました。
2.本当だった!
すると、大変親切に教えていただけたのですが、結果わかったのは、塩漬け死体の磔や病死の件を含め、本当にあった事件だと考えるのが妥当ということでした。矢七の磔については、幕府役人の命令などを写した記録が残されていて、『新居町史』で翻刻の文章を読むことができます(下の写真はその原書の一部)。なお、江戸期には重大犯罪人の死体を塩漬けにし、刑が確定してから処刑することは法令に定められていたそうです(Wikipedia「死後処刑」の「日本」の項を参照)。
遊女を丸山から江戸へ連れて行くというのも凄い話です。これは「天保風説見聞秘録」に記されたもので、同書は無条件に信頼できる史料とは言えないでしょうが、江戸幕府の法令、判例を集めた「徳川禁令考」に明確に照合できる処罰の記録があり、単なる噂話ではないと分かります。このような情報は近藤恒次著『東海道新居関所の研究』(1969年)にまとめられており、渡辺教授の論文はこれを資料にしたものと思われます。
3.長崎で知られないのは、なぜ?
同時期に遊女二人、素人女四人が姿を消すというのは、当時の長崎で決して小さな事件ではなかったでしょう。特に遊女は妓楼にとっては富を産む大事な「資産」でした。それが長崎において後世に全く伝わらず、長崎の歴史研究者も知らない状態であるというのは、事件後に徹底した隠蔽が行われたのだろうと推測できます。人の口に戸は立てられませんが、文書記録は長崎には一切残されなかった、と。
4.長崎奉行本多正収の謎と呆れた家来たち
時の長崎奉行本多正収その人についても、不可解な沈黙の帳が降りています。有名なシーボルト事件は正収の長崎在任中に起こったのですが、正収がこの事件の処理に当たったという記事が見当たりません。また、「ねっこのえくり」というサイトの「本多氏(藤原氏北家・兼通流)・定吉流の系図」に「本多正之~正収の系図」がありますが、膨大な系図の主要人物中、正収は例外的に没年が「?」となっています。
長崎奉行は江戸幕府の「出世コース」だったと言われます。しかし、正収にとっては蹉跌の経路となったようです。近習までもが丸山の誘惑に溺れたのは、正収の奉行としての統制に問題があったことをうかがわせますが、一方で、家臣が遊女を連れ帰ろうとあえて関所破りの大罪を犯したのは、いかに丸山遊女が魅力的だったかという証左ともなりそうです。長崎という狭い世間に閉じ込められていた女性にとっても、花のお江戸への誘いは抗がたいものに感じられたでしょうか。