旅日記「西遊草」と弥太郎の長崎日記
1.母を連れて大旅行
庄内藩(山形県)の郷士で、富裕な酒造家に生まれた清河八郎(1830-1863)は、安政二年(1855年)三月、母親孝行のため伊勢参りに母親を伴って旅立ち、伊勢参拝後も旅を続けてついには安芸宮島の厳島神社に到達、さらに各地を巡って同年九月に帰郷するという大旅行を行いました。その際の和文日記が「西遊草」です。旅程や名所旧跡について詳細に記されていますが、何と筆まめなことか、八郎は同時に漢文の日記もつけていました。
「西遊草」の面白さは、まずは母親を連れた七ヶ月間三千キロという途方もない旅の記録であることです。江戸時代の旅ですから、当然基本的に徒歩です(駕籠の利用や、川筋や瀬戸内での船旅もあり)。八郎は15歳の時の子供なので、母親はまだ40歳と若いのですが、雨風の日も、二十代半ばの壮健な八郎でさえくたびれるような山坂道も、母子で歩き続けます。旅の苦労をことさらに強調してはいないのですが、読んでいる内に圧倒されて行きます。
それにしても、半年以上の間、仕事抜きで旅に過ごすことのできる八郎といい、同じ期間家を空けることのできる母親といい、幕末期にも富裕な階層の人々は余裕のある自由な暮らしができたようで、制約だらけの封建時代という先入観に当てはまらず、驚かされます。女性の旅では関所の通過が難事でしたが、母子は脇の抜け道を平気で通ります。面倒なのか、役所も関所破りをそんなに厳しく追及していなかったようで、ここでも「関所破りには恐ろしい厳罰」という先入観が揺らぎます。
2.「西遊草」の魅力
八郎の文章には本居宣長とは違った魅力があり、旅の出来事、各地の風土や名所の来歴を記す適確な筆致に八郎の能力の高さが滲み出ています。ちなみに「西遊草」は、現代語の抄訳が平凡社東洋文庫で出た後(1969年初版)、校注付きの翻刻が岩波文庫から刊行されています(訳、校注はどちらも小川松勝一郎)。名高いとまでは言えない江戸期の人物の日記、旅行記としては異例と言えるでしょう。図書館で借りた東洋文庫版は1987年第6刷となっていました。
3.弥太郎の平等な人間観
私は弥太郎の日記との比較ばかりが頭にあり、冒頭に「母は僕をいざなひ」とあるのを読み飛ばしていました。長旅を共にすることになる人物なのに名前が出ていません(ずっと後に、間違った漢字で記されている)。しかも、途中この「僕」に殆ど言及がないため、私は従者を連れての旅であることにずっと気づかずに読んでいました。ヒマラヤのシェルパのように、道中の荷物は「僕」が多く担いでいたはずなのですが、八郎にとって、目下の「僕」は、日記に記すほどの価値のある人物ではなかったことになります。
岩崎弥太郎の日記には、「丹波商人六兵衛」なる旅の商人が度々登場します。弥太郎と六兵衛は同宿で、酒席を共に楽しみ、碁敵として何度も戦ったことが記されています。弥太郎は、長崎では郷士の格を与えられて武士として振る舞っていましたが、実際には下士ですらない地下浪人という身分でした。弥太郎が目下の六兵衛とのつきあいを日記に書き留めたのは、こうした自身の立場も関わっていたでしょう。
しかし、弥太郎は元より人を平等に見る質の人間だったのかもしれません。弥太郎の日記は、人物の敬称の付け方など身分社会の分をわきまえて書かれているものの、同時に誰かにへつらったり体面を気にしたりする様子は一切ありません。弥太郎の上司の下許武兵衛は、弥太郎と凸凹コンビのように振る舞っていますが、もしこの時期に下許が日記を書いたとしたら、自らの上士という立場や体面を考慮し、一介の行商人である六兵衛とのつきあいを日記に残すことははばかったでしょう。
弥太郎は海運会社を起業した後、下級武士を中心に慶應義塾出身者など知識層の人間を雇い入れました。その一方で、社会の最底辺とみなされていた車夫の人物を見込んで、三菱の幹部に取り立ててもいます。弥太郎が、近代人のように自らの内面や平等な人間観を日記に記したことと、三菱という近代企業の先駆けを創出したことには関係があるだろう、と私は推測しています。弥太郎の日記には、こうした時代を超えた彼の人物像を読み取れるという面白さもあるのです。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?