「カギ括弧」のない時代に文字に記された声を聞く
大坂から平戸に向かっていた大型の木造船福市丸は玄界灘で嵐に遭遇し、ある島の入り江に避難しました。慶応元年(1865年)十月のことです。乗員や乗客は上陸して船宿に行き、湯に入ります。海風で身体が冷えたようです。翌日も、沖の波が雷のような響きを立てていて外海に出られません。
船客の医師小石中蔵は、湯に入った後に港の家で休みます。そんな時、20歳前くらいの男子が、黄しめじを両手に持って磯辺を歩くのが目に入りました。
口語体が普及する前、明治より前には話し言葉が文字で直接再現されることは、普通はありませんでした。話し言葉を「カギ括弧」で囲んで地の文から区別する技法は、明治期に始まったようです。しかし、声が文字にされない時代に書かれた文章の中から、不意に人の声が響いて来て、驚き、心を動かされることがあります。
中蔵は、荒れた天候の下でもよく通る子供の高い声や、収穫物を持ち帰ろうとしている若者から(たぶん恥ずかし気に)発せられた言葉を記録しました。私は、彼らの声を直接耳で聞いたように感じて驚き、船宿の呼び込みをする子供の健気さや、純朴な若者と中蔵との暖かいやりとりに心を動かされました。
近代以降、小説の中などで話し言葉を「 」を使って表すのが当たり前になり、声の効果は書き手にとって上手く使えて当然の技法となります。そのため、上記のような声がもたらす不意の驚きや感動は、現代の小説ではかえって得にくくなっているかもしれません。もちろん、真に優れた小説の中では、必ず生気に満ちた声が響いているものですが(井伏鱒二、ドストエフスキー、などなど)。
もう一歩、話を進めます。声を文字にする習慣のない近代以前、話した言葉自体は全く記されないのに声を感じさせる文章が存在する、と私は思っています。下は幕末の近江商人小杉屋基蔵(元蔵)の旅中日記の一節です。元蔵は会話をそのまま文字にしたことはありませんが、言葉が発せられる場面を書き残すことはありました。戊辰戦争(1868年~1869年)の最中、商用で中山道を移動中の記述です。
近江商人らしい(恐らくは)人を逸らさない話しぶりや、幕末の動乱の不安の中で、新しい情報に耳をそばだて、元蔵に「喜んで打ち寄る」宿場の人たちの姿が脳裏に浮かびました。話の具体的な内容は記されていませんが、元蔵の言葉がどんなに熱心に聞かれたか、簡潔明瞭に表現されています。旅の商人は、全国的なメディアが存在しない時代、生きた移動放送局であり、ニュースキャスター役を果たしたのかもしれない、などと思いをめぐらせたことでした。
日本語の書き言葉は、外国語である中国の文字を使うことから始まり、かなが発明された後も、漢文を使うのがインテリ男性のたしなみとされました。漢文や漢文を書き下したような文体では、声や言葉を写し取るのは殆ど不可能です。しかし、そうした文章においても、上記のような意味合いにおいて、声の響きを感じさせてくれるものはあります。
三菱の創始者岩崎弥太郎について、その文章自体を評価するような人は昔も今も殆どいませんが、彼の残した日記には独自の魅力がある、と私はかねがね思っています。このところ幕末・維新期の日記をだいぶ読んで、その意を強くしました。幕末長崎での洪水の有様を記した上記の文章から伝わる切迫した声の響きは、彼の文章の魅力の一端です。