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はるかな昔 風土記の地名物語
はるかな昔、奈良時代の初め、各地の風土を調査して報告せよとの詔が出されました。和銅6年(713年)、元明天皇の御代のことです*1。この詔命に応じて、各国の国司が「解文」を作って奏上し、それが後に風土記として知られるようになります。残念ながら、まとまった形で残っているのは五カ国のものだけです。
その内の一つ、常陸国風土記の冒頭近くに、こんな文章があります(原文は漢文。既存の訓読、現代語訳を元に私訳)。
倭武天皇は東の夷の国をご巡察なさって、新治の県を過ぎようとしていました。国造の那良珠命を遣わして井戸を掘らせたところ、泉が流れ出しました。水は浄く澄んでいて、とても好ましかったので、倭武天皇は乗っておられた御輿を停め、水をもてあそんで、手をお洗いになりました。その時、御衣の袖が泉に垂れて袖をひたしたので、この国を常陸という名になさいました。
私はこの文章に魅せられました。一目惚れをしたと言ってもいいでしょう。原文に季節の記述はないのですが、私の中で夏の出来事と決まりました。深い青空や、焼けた地面を行く蟻の行列さえ目に映ります。勝手に軍勢の一人になり、幾度もの戦さにもかかわらず白いほっそりした倭武天皇の指が、冷たい清らかな水にひたされるのを目撃しました……。
古事記や日本書紀を読んで、これほど喚起力のある文章に出会った記憶がありません。読み進むと、さらに、いくつもの魅力的な文章が待っていました。恋心は常陸国風土記の全体に広がり、他の四カ国の風土記も大いに気に入りました。そうする内、風土記が記紀のように読まれていないのが残念に思えて来ました。風土記は人気がないのです。私自身、書店で倭武天皇の件りに出遭う偶然がなければ読むことはなかったでしょう。
なぜ不人気なのか、分からなくもありません。朝廷への報告書ですから、無味乾燥な記述が多いのです。また、全体に物語のような一貫性がなく、歴史の深層に直接誘うような内容でもありません。しかし、風土記には古事記や日本書紀にはない独自の魅力が確かにあります。歴史物語を読む楽しみとは違います。町や村の人々、自然の風景が多彩に描かれた屏風絵を、自らの興味にしたがって心ゆくまで味わうような、そんな面白さです。
こうした風土記の魅力はもっと知られていいように思いました。どうしたものかなあ、何かやりようがないかなあ、と考え始めました。私は歴史や古代文学の専門家ではないし、風土記や茨城県に何か義理があるわけもありません(茨城県に地縁も血縁もありません)。ファン心理でしょうか。色々考えた末、官報めいた報告や繰り返しに見える部分などを削除し、魅力的な文章を中心にまとめてみようというアイデアにたどり着きました。
このnoteでは、風土記から抜粋した現代語訳を少しずつ掲載してゆきます。誰かの目にとまり、風土記に興味を持ってくれるきっかけになれば幸いです。先学の研究を糧に*2、原文に近い訳を心がけます。私は(元?)小説家ですが、文芸批評や評伝も手がけて来て、そうした際には小説的な脚色をしないのがポリシーでした。ここでも、その方針を貫きます。学問的な保証はできませんが、恣意的な訳にしないことを約束します。
また、原文の順番を違えるような改変もしません。ただ、ある地域ではたくさんのエピソードが選ばれ、他の地域では極く少ないということがままあるはずなので、風土記の忠実な抜粋版とはならないでしょう。それでも、全体としては風土記を概観できるものにしたいと考えています。
*1 日本書紀の次の歴史書「続日本紀」和銅6年5月の項に、地名に好い文字をあて、物産や耕地の状態、地名の由来や古老の語る古い言い伝えを報告せよという詔が出されたとあります(詔に「風土」という語は使われていません)。
*2 参照した文献は、拙ブログ「レワニワ書房通信」の「水の詩人」の回に掲載した文献リストをご覧ください。同ブログでは、風土記に関して30回近く書きました。それほど気に入ったということです。なぜ風土記なのかは、そこに記されていますが、長く書いて来て分量も膨大です。このnote用のメモを別に作ろうかと思案中です。