風土記の地名物語――常陸国3
志太郡の回。黒坂命のエピソードは、一般に常陸国風土記の本文ではなく、逸文に含まれます(逸文とは、他の本に風土記からの引用として記されているものの、風土記の伝本に記載のない「失われた本文」のことです)。角川ソフィア文庫版『風土記』では、この部分を本文に復元すべきとしており、風土記に目を開いてくれた同書に敬意を表して従います。
黒坂命の死 信太国の地名の由来
黒坂命は、陸奥国の蝦夷の征伐におもむき、事が終わって凱旋した折、多歌郡の角枯山に至ったところで、病を得て亡くなりました。
このため角枯を改めて黒前山と名づけました。黒崎命の棺を載せた葬送の車が黒前山を発って日高国に到着するまでの間、葬礼の飾り物は、赤幡と青幡が入り交じって風にひるがえり、雲が飛ぶように流れて、虹が架かり、野原を輝かして道を明るく照らしました。
当時の人々は、これによって、日高国を「赤幡垂り国」(赤幡の垂れる国)と名づけました。後の世に言い換えて信太国と称しました。
普都の大神の天への帰還
古老が語るのに、郡の北十里に碓井があります。景行天皇(大足日子天皇)が浮嶋の帳の宮(仮の御座所)に行幸をされた際、お飲みになる水がありませんでした。そこで占いをする者を遣わし、占いを行わせてあちこちを掘らせました。井戸は今も雄栗の村に残っています。
ここから西に高来の里があります。古老が語るのに、天地の始まりの時、草木がまだものを言うことができた時代、天から降りて来られた神がありました。名を普都大神と申し上げます。葦原の中つ国を巡行され、山河の荒ぶる神々を和らげて平定なさいました。
大神はすっかり神々を帰服させたので、天に帰ろうと心にお思いになりました。その時、身につけておられた武器(当地では「いつの」(神聖な)と言う)甲、戈、楯、剣と、手に着けておられた玉珠を全て脱ぎ捨てて、この地に留めおき、白雲に乗って蒼天に昇り、帰っていかれました。
各地の話題
葦原(平地)の鹿の肉は腐るほど熟したよう(に美味)で、食べてみると山の鹿の肉とは違います。(その数は)常陸と下総の二つの国の猟師も採りつくせないほどだそうです。
飯名の社は、筑波山にいます飯名の神の分社です。
榎の浦の津には駅家が置かれています。東海道の幹線路で、常陸国の入り口です。そのため、伝駅使らは初めて国に入ろうとする時には、まず口と手とを洗い、東を向いて香嶋の大神を拝し、そうした後に入国が許されます。
倭武天皇が海辺をご巡幸なさって、乗浜に行き着かれました。その時、浜辺にたくさんの海苔が干されていました。これによって能理波麻と名づけました。
乗浜の里の東に浮嶋の村があります。四方を海に取り囲まれ、陸地は山と野がいりまじっています。戸数は十五戸、田は七、八町ほどしかありません。住んでいる百姓は塩焼きを生業としています。村には九つの社があって、村人は言葉と行動を慎んで暮らしています。
常陸国3の解説
信太郡はおおむね現在の茨城県稲敷市とその近辺にあたります。
角枯山は現在の多賀郡の堅破山。頂上に黒前神社があり、黒坂命が祭られています。
碓井、雄栗の現在地は稲敷郡美浦村辺りと推定されますが、定かではありません。見出しの写真は、普都の大神が武具を脱ぎ捨てた場所とされる美浦村の楯縫神社です。
普都の大神は古事記・日本書紀において比定される神がありますが、剣の化身の神とも考えられています。「豊葦原の中つ国」は高天原と黄泉の国の間の地上世界と解釈できます。
普都の大神は、太古の昔に霞ヶ浦の辺りに降り立って、荒ぶる地元の神々を平定したのでしょうか。
高来の里は現在の稲敷市阿見町とされます。飯名の社は龍ケ崎市あるいはつくば市の所在? 榎の浦の津はどこにあたるか不明。香嶋の大神は香島神宮の祭神。乗浜と浮嶋村は稲敷市桜川地区。浮嶋は霞ヶ浦の島でしたが、現在は陸続きです。