釜が破れて行かれない
土地についた名はその由来在り様を示すと云われる。
茶売が多ければ茶屋町、鍛冶屋が多ければ鍛冶屋町、材木問屋が多ければ材木町。定日に市が立つなら四日市場町や十日市場町。見晴らしの良い地域では国見町と名がつくことが多いそうだ。
近く転居や住宅購入を検討している方なら、サンズイの付く地域はかつて沼や池があって地盤が緩いので地震に弱い可能性があるだとか、田や窪の付く地域は湿気が強い場所が多いだとか脅された人もいるのではないだろうか。
その地の特色、起きた事柄、住んだ人。地域に人が根付けば良しにも悪しにもなにがしかの縁起が生まれるものだ。それを言祝ぐものもあれば、警告し後世の人々へと喚起するものもある。
しかしそれ故に、由来の伝わらない地名こそ気を付けるべきかもしれない。
口にする事をも憚られ正しくその意味が伝えられなかった地には、今も人知れぬ”何か”が起き続けているかもしれないのだから。
1.案山子
おおむねこの仕事には満足しているが、全く無駄だとしか思えないくせにめっぽう手間ばかりがかかる作業が多いのは如何ともし難い。
愛しい我が子を毛布の上から梱包用の紐でグルグル巻きにしたうえ一月も押入れに閉じ込めておいて、「殺害する気はなかった」などというんだから、マトモな神経をした人間とは考えられるはずもない。つまりあの女はもう取り返しのつかない所まで狂っちまってるっていうことは明白なのだ。
もはや結末は決まりきっているというのに、地方新聞がつけた大げさな見出しのせいで騒ぎだけが強火になってしまい、検察様に気を利かせたお上の「調書が少なすぎる」との一声で、片道3時間もかけて聞いたこともない田舎町まで容疑者の母親に供述書類一枚書いてもらいに出張だ。
紙っぺら1枚に心神喪失の線を断ち切る泊付けが欲しいと、わざわざ刑事がゴシップ記者のマネごとをさせられるなんてたまったもんじゃない。
まあ最初はぶらり鈍行の旅だと気楽に乗り込んだ電車だったが、見える景色が山か畑かしかなくなってからは、早々に弁当を食ってしまったことを後悔するだけの時間が続いている。用事をさっさと済ませて帰り路を楽しもうと近隣の名産なんかを地域のクチコミサイトで探してみたが、米がよくとれることしかわからない。
米を作るなら地酒の一つも作るべきじゃあないのか。そもそも米が「うまい」とも書かれていないのだからどんどん期待が失せていく。
頬杖を付きながら外を眺めるのも風情の一つかもしれないが、どうも手持ち無沙汰は苦手だ。一応振り返りは必要だろうと捜査手帳を開く事にした。
刑事課に所属してすぐに教え込まれたメモ癖はしっかりと染み付いたものだが、整理術も合わせて教えて欲しいものだ。何枚も貼り付けられた付箋や写真でいつもこいつははち切れそうになっている。
吾妻 紗理奈殺害の容疑者である吾妻 真梨恵は13年前に職場で出会った夫の金見 章と結婚。その3年後に長女の紗理奈を出産するが、その6年後には夫の不貞がきっかけで不和になり離婚。旧姓の吾妻に戻り、それからはかつての職場であった商社の事務員として復帰し働いていた。
職場での態度は問題なし。むしろ事務員としてはかなり有能だったそうで、今は仕事の引き継ぎでてんやわんやだそうだ。
近隣住民からの評判も普通。悪い話もなければ良い話もそれほどなかった。
多少波乱はあるがよくある人生と言えるだろう。
それが急に変わったのが今年2月の頭。
それまで皆勤賞だった紗理奈が、急に小学校を欠席し始めたのだ。連絡もなく欠席を続けるので心配に思った担任が電話をすると、母親の真梨恵が出ては「熱が出た」だとか「腹が痛がってる」だとか、ズル休みする子供でももっとマシだろう言い訳を繰り返し一向に本人と話をさせない。
その後も不登校は続き、いよいよ怪しんだ教師の通報によって児童福祉課の職員が自宅へ訪問。真梨恵によって同じように面会を拒否され続け、ついに事件性があるかもと巡査部長が同行の元で訪問してついに事件が発覚した。
当の巡査部長には何度か話を聞いたが、その度に家中がひどい匂いだったのだと怪談話のように言われて耳にタコだ。とはいえ現場には何度か足を運んだが、いまだあの家には何かがこびりついているように感じてしまい、どうにも背筋に冷たいものが走る。初動捜査に割り当てられず助かった。
まあ、確かに疑問は残る。紗理奈の遺体はひどい状態だったそうだが、外傷のたぐいは見受けられず慢性的な虐待の形跡はなかったらしい。
離婚した夫の関与も考えられたが、彼は離婚後すぐ県外に引っ越しており、二ヶ月に一度の娘との面会日以外には殆ど寄り付いていないようだ。
元夫と娘との関係性も悪くなく、真梨恵とも離婚当初は不和があったがお互い生活が安定してからはそれなりに交流はあったという。その元夫にしても、真梨恵がこんな事件を起こすとは微塵も感じたことがないと言っていた。
真梨恵の友人知人もあたってみたが、特に最近で変わったこともなく色恋の噂も聞いたことがないそうだ。
そんな真梨恵が何故突然豹変した?恐ろしいことに彼女は娘が死亡してからも特段変わることなく3週間近く同じ家で生活をしていて、仕事にも出ていたのだというから奇妙な話だ。ああ、確かにえらく奇妙な話ではある。
とはいっても検察はそんなことに興味がない。検察が興味のないことは警察だって関係がない。この調書取りだって結局の所、真梨恵の母親から話を聞くという形で「いかにもそれらしい理由」の候補を増やしたいだけなのだ。
片親での子育てに悩んでいたとか、新しい恋人の影だとか、納得しやすいありがちな筋書きがあればいい。
つまりそういったスキャンダラスな出来事を匂わせる言葉を、彼女の母親から引き出すというのが俺の出張の目的だ。これが公衆の正義を守るべくして身を捧げた公僕に課された重要な任務だというのだから笑えない。
どちらにせよ車輪は回り始めている。定年まではまだ時間の多く残っている自分の査定にどれだけの影響があるかだけを考えれば、与えられた仕事を求められた通りにやるしかないのだ。
これっぽっちも気の晴れない時間ではあったが、主目的であった時間つぶしには意味があった。ぎいぎいと古めかしい音で停まった電車は目的地の1つ前の駅への到着をアナウンスしている。終点まであと4駅を残すだけとなった田舎駅は誰も乗り降りせず、春先だというのに少し冷たい空気を車内に運んできただけだった。
車窓から覗く光景は事前に調べた通りの寂しさで、だだっ広い田んぼに植わったばかりの稲苗がたよりなく揺れているだけだ。ところどころに立つ雨風に晒されくたくたになった案山子に少しだけ自分を重ねてしまう。
よう兄弟、調子はどうだい?暗い顔してるじゃないか。まあ俺も似たようなもんだけどな。こんな仕事とっとと切り上げて、一杯行こうぜ。
そうだな。珍味に地酒とはいかないまでも、適当に酒とツマミを見繕って帰りは少しでも気楽にいきたいもんだ。
かくして吾妻 真梨恵の地元である松吹町に到着したのは午後2時頃だった。
小さいが自動改札のついた立派な駅舎を出るとそれなりに大きなバスロータリーが目につく。昔は町内に小中の分校があったそうだが、今は少子化もありこのあたりの子どもたちは毎朝バス通学をしているようだ。
殆どは通勤通学の為に用意された路線のようで、スカスカな時刻表によると次にバスが来るのは1時間後となっている。当然タクシーが客待ちをしている様子もなく、目的地までは歩いて行くしかない。
都合よく足があることを期待していた訳では無いが、少しだけ気落ちしてため息をもらしてしまう。目的地はロータリーを挟んで向かい側だ。横断歩道もないのでぐるりと回り込むしか無い。車も人の目も無いが腐っても警察官だ。無視して横切ることはできない。
なんとなく見やるとロータリーの中央はちょっとした花壇になっていて、そこに子供を模したような小ぶりの案山子が3体並んで立っていた。畑に立っていたものはもう少し大きくくたびれたものだったが、これは比較的新しいもののようで3体ともピンと背筋を張っている。
村おこしのマスコットか何かかとも思ったが、古着を適当に被せたような格好に愛嬌はなく、特に案内表示もないのでスペースが空いたからとりあえず置いておきました、という風に見える。
まあクチコミサイトをもってして「うまい」とも評されない米が「よくとれる」としか書かれない地域なのだから、駅に置くものにも悩んだ結果なのだろう。益体もないことを考えながらぽつぽつと歩き、せめて帰りに買い物が出来るような商店がないか探しつつ真梨恵の生家である吾妻家へと向かった。
するとどうだろう、あの小さな案山子が存外町のあちこちにあることに驚いた。個々の作りや出来の程度はまちまちだが、大体130センチ程度大きさをした二本足のちょっと珍しい案山子だ。
古びた遊具の並ぶ小さな公園や、ちょっと開けた河原、シャッターばかりの商店街らしき通りの入り口なんかに1体か2体が特に飾られるわけでもなく突っ立っているのだ。
30分程度の道すがら数人の住人とすれ違いはしたが、それ以上にあの案山子に遭遇することの方が多かった。何か曰くがあるのだろうか?それならそうとどこかに書いておいて欲しい。
このどうでもいい事に気が向く性格が刑事には合っているといわれたりもするが、俺としてはどうにもすわりが悪い。捜査手帳の片隅にでも書いておこうかとポケットに手を伸ばしかけ、やめておいた。
さっさと用事を済ませて全部忘れて帰るんだ。そう思い直すと、途中見かけた酒屋の場所だけを覚えておくことにして歩みを早めた。
2.吾妻家
地図アプリにない道があちこちにあって多少迷いはしたが、1時間かからない程度で目的地である吾妻家に到着した。
多分にもれず農家ではあるようだが近くに水田は見当たらず、どうやら別の作物をやっているようだ。家の前には泥に汚れた軽トラと相当の年季を感じるファミリーカーが並んで停まっている。
こういう時どうしてもインターフォンを鳴らすのにためらいがちだが、今回はその必要はなかった。軒先にホースで水を撒いている女性が俺を確認すると「警察の方ですか」と開口一番に声をかけたからだ。
「ええ」と軽く会釈をして「恐れ入りますが、吾妻 晴子さんでいらっしゃいますか?」と尋ねると、コクリとうなずいた。
書類では真梨恵の母である晴子は61歳と書かれているが、実際に相対するともっと若くみえた。田舎の健康的な生活のたまものかというのは偏見かもしれないが、この溌剌とした御婦人にこれから陰惨な事件についての話をするのだと思うと多少なりと申し訳ないという気持ちが湧いてくる。
「お父さんは警察とは話したくないって畑に逃げちゃってね。電話で私だけでも構わないと聞いたのだけれど、やっぱり呼んできた方がいいかしら?」
少し困ったようにいう晴子に、恐縮したような声で「いいえ、少しだけ娘さんのお話を伺えればいいだけですので」と答えた。
お父上の気持ちもわかる。それにどうせ必要なのは「それらしい筋書き」だけなのだから、こちらからすれば『それ』に説得力を持たせられる人物であれば父でも母でも、一人でも二人でもかまわない。
「記者さんって方も何人か来たんだけどね、あまりお役に立てるようなことは何も言えなくって。こんな田舎まで来てもらって悪いんだけれど」そういいながら「こちらへどうぞ」と客間へ通して頂いた。
玄関口から客間まで一応ぐるりと見回したが、何の変哲もない和風の民家だ。客間にはそこだけ少し現代的な薄型テレビがワイドショーを映していたが、ちょっとした置物や旅行写真なんかが少しあるだけで、少し目を引いたのは真梨恵と紗理奈が晴子とご主人であろう人物と共に写っている写真ぐらいだった。
「なんにも無くってごめんなさいね」と急須と漬物の乗った小皿を盆に載せて戻ってきた晴子に「いえいえお構いなく」とありきたりな返事をする。汗をかくほどの道のりではなかったが、しばらく歩かされたので胡瓜と大根の漬物がとても有り難く感じる。気を利かせたのだろうぬるめに淹れてくれた緑茶をごくごくと勢いよく流し込み、その合間に「あの写真はいつ頃の?」と話の取っ掛かりがてら聞いてみた。
「ええ、一昨年の夏に真梨恵が紗理奈ちゃんと来てくれて」と教えてくれると「まさかこんなことになるなんてね」と少し寂しそうに呟いた。
「この度は本当にご愁傷様です」と今更ながらに述べ「何かお力になれることがあればいいのですが」と続けると、「いいえ、主人も私も落ち込んではいますが、今一番辛いのはあの子でしょうから」と盆を脇に置き、テーブルの向かいの座布団に座った。
「お気落ちの所申し訳ないのですが、いくつか形式的なことを伺いたくて」とまさしく形式的な言葉を投げかけながら手帳のページを開いた。「まずは最近の事からなのですが……」と真梨恵の様子や親子関係、最近親しくしていた人や悩んでいたこと相談されたことなどはないかと続けた。
大体は予想通りの返答しかなく、何か「それらしい事」を引き出せないかとちょっと突っ込んだ話題なんかも振ってみたが、空振りに終わってしまう。
最初は少しぐらい揺さぶってやろうと思っていた所もあったのだが、健気にも気丈に応対してくれる晴子に対して悪感情は微塵も持てなかった。どうせ最初から何も出てくる筈がないのだ、上司にはどやされるかもしれないが、無いものは無い。
俺があともう少し若く出世に望みを抱く頃合いであればドーベルマンの如く噛み付いただろうが、今更上司のご機嫌伺いをしたところで毎食後の胃薬の量をちょっと減らすぐらいの効果しかない事を知っている。
ある程度話を聞いた所で手帳を閉じ、聞いた話を正式な書面に書き出していく作業に取り掛かることにした。
「お忙しいところありがとうございます、こちらに書き出したものに目を通していただいて、問題がなければ署名頂いて……手続きとしてはそれで終わりますので」と伝えると「あら、でも本当大したこともお話できず」と少し申し訳無さそうにされてしまった。
「いいえ、お時間いただいて申し訳ないですが形だけのものと思っていただいて問題ありませんので」といったところで、晴子は少し目を伏せて「でも、警察の方ですからご存知でしょうけれど……。あの子小さい時にちょっとあったでしょう?」と少しトーンの落ちた声で言った。
「小さい頃?」思わず手を止めてそのまま聞き返してしまった。
「ええ、真梨恵が10歳の時に。一緒に遊んでいた子達と事故があって」
そんな話あっただろうか、トントンとペン先で机を小突きながら思い出そうとしたが、どうやら聞いたことがない話だ。
「いえ、その話は初耳です。事故というのは?」
「あの子が小さい頃、まだこの辺りの子どもは沼上分校の方に通っていましてね。ずいぶん前に廃校になっちゃったんですけど」
「沼上分校、ですか」
「ええ、この辺りは大昔に町村の統廃合がありまして。ここは沼上村っていったんですよ。今でも私達より一つ上の世代の人は住所を書く時に大字沼上って付けますね」
「それで沼上分校ですか。真梨恵さんもそちらに通ってらしたんですか?」
「そうです、あの時はたしか全部で10人ぐらいだったかしらね。学年はバラバラでしたけど一つの教室でみんなで勉強していて」
晴子は少し懐かしむような表情をして、緑茶を少しすすった。
「学校には男の子グループと女の子グループがあって、真梨恵もやっぱり女の子グループでよく遊んでいてね、5人でいっつも遊んでいたのよ」
そこまで話すと少し間をあけて、気持ちの重さを吐き出すかのように長めのため息を一つ付くと、また話し始めた。
「でもね、そのうちの一人……佐伯 佳奈ちゃんっていう子が亡くなっちゃって」
佳奈ちゃん、とてもいい子だったのよ。でもその後しばらくして佐伯さんのお家は引っ越しちゃって……と懐かしむように言葉を続けた。
「それが事故というわけですか?」確かに幼い頃に友人を亡くしたというのならショックは大きいだろうが、今回の件に何か関係があるようには思えない。なら恐らく真梨恵自身がこの『事故』に関係しているはずだ。
「ええ、どうもいつもの5人で遊んでいた時に。学校の授業で作ったその……ナップザックっていうの?大きな巾着袋みたいなものが」と手振りでこんな感じの、と示してくれる。うちの娘も小学生の頃に似たようなものを作っていたはずだ。「ええ、大体わかります」と言って続きを促した。
「どうもそれをね、頭にかぶせて目隠しに使っていたらしいんだけれど、紐がどこかに引っかかったとかで首が締まっちゃって……それで、ねえ」と言葉を濁す晴子に、手でそれ以上は結構と示して引き継いだ。
「なるほど、友達同士で遊んでいる時の事故で佳奈さんは亡くなってしまったと……。その事について真梨恵さんは長く引きずってらしたんですか?」ここまで聞いてもまだ今回の事件との関係性が見えてこない。
「小さい子にはお友達がそんなことになるなんてショックじゃない?だからだと思うんだけど、真梨恵や他の子達もみんな『佳奈ちゃんは鬼さんに連れて行かれたんだ』って」
「鬼に連れて行かれた?」予想もしていなかった言葉に声が裏返りそうだった。こりゃあ一体、何の話をされているんだ?
「私もずっとこの辺りに住んでいるんだけど、その時まで知らなかったのよ。でもこの辺りにはずいぶん昔にそういうおとぎ話みたいなのがあったみたいで……どこで聞いたんだか分からないけれど」突拍子もない話だと自分でもわかっているのだろう、晴子も困ったような顔をして続けた。
「子供同士の事だし、事故だとすぐにわかったからそれ以上大事にはならなかったんだけど、どこかにずっと引っかかってたのかしらね」少し悲しそうに眉をひそめて晴子は「紗理奈ちゃんがお腹にいることがわかったすぐ後に電話してきてね。最初は喜んでいたんだけど、急に不安そうな声で『この子は鬼に連れて行かれないよね』なんて言い出して」
なんと言えばいいのかわからなかった。晴子の方もそうだったようで、しばらく時計が秒針を鳴らす音だけが客間を包んだ。
「紗理奈ちゃんも鬼に連れて行かれた……と?」と絞り出すように言ったが「いえいえ!そんな!ただあの子にもちょっと不安になっていた時期があったというだけで!」と驚かせてしまった。思わず膝が跳ねたのか、机がガタンと揺れて湯呑が倒れかけ、慌ててそれぞれの湯呑を取り押さえた。
「すみません、突拍子もない事を言いだしまして」と詫びるが、「いいえ、私の方も……なんでかね、今回の事を聞いた時どうしてかこの話を思い出しちゃって、誰かに話したかっただけなのよ、きっと」と晴子も続ける。
お互いにそうやってしばらく謝り合い、いい加減終わりが見えなくなった時にようやく調書の事を思い出した。
どうしたもんかなと少しだけ逡巡したが「先程の話ですが……こちらには書かないほうがいいかもしれませんね、小さい頃の話ですし、混乱させるだけかもしれません」と当たり障りのない言い方で促すと「そうですね、忘れてください」と晴子の方も言葉を飲み込んだ。
その後は晴子自身の近況や、旦那さんのことなんかを少し聞きながら調書を確認してもらい、つつがなく署名を頂く事ができた。
用事が済み、それではと簡単な挨拶でその場を辞そうとすると「真梨恵の事をどうかよろしくお願いします」と深々と頭を下げられてしまう。
俺は真梨恵さんを少しでも長く牢屋に閉じ込めようとしている側の御用聞きですよ、なんて今更言える訳もなく「何かお力になれる事があればご連絡下さい」と名刺を渡すのが精一杯だった。
どうにも胸がムカムカとして落ち着かない。いい顔をして近づいて晴子を騙すような事をしている自分に対してかもしれないが、それよりも奇妙な話が頭の縁にこびりついて取れないことが原因かもしれない。
田舎町にはよくある事なのか?鬼がどうたらと、気味が悪いったらありゃあしない。どうにも悪い後味を忘れようと懐からタバコの箱を引っ張り出した所で突然「どうも、県警の刑事さんですよね?」と声をかけられる。
そこに居たのは、50代後半頃に見える男性の警官だった。
「ご苦労さまです、あたしはここの駐在の村木って者です。行きしなもお迎えに行ければよかったんですけどね、到着の時刻がわからなかったもので」そういって軽く敬礼をすると続けて、「良ければお送りしますよ、駅まででいいですか?」と少し離れた所に停まっているパトカーを指さしながら聞いてきた。
頭がモヤモヤとして重く歩いて帰るのに辟易としていた俺にはまさに渡りに船というやつだ。一も二もなく「助かります」と乗り込むことにした。
3.御召し上げ
ドアを開けてくれた村木さんに一礼しながらパトカーの助手席に滑り込むと、運転席に座る彼は何も言わず灰皿を引き出してくれた。ありがたい。
やけに引っかかる手回しハンドルに苦労しながらも窓を開け、「失礼」と一応の断りを入れてからタバコに火を付けた。
俺がゆったりと流れる風に手を遊ばせながら、二口ほど煙を味わった所で「改めて遠い所からご苦労さんです、なにか話は聞けましたか」と村木さんが水を向けてきた。
「ああいや、まあこんなもんかという感じですよ」と当たり障りなく返したつもりだったが「吾妻さんから伺いませんでしたか、ほら、真梨恵ちゃんの、子供の頃の」と切り替えされて思わず息を呑んでしまった。
「あたしはね、初めに5年程他所に詰めてからは、ここでもう20年以上駐在しとりまして。親父もその親父も駐在だったんで、みんな合わせたら100年近くはこの町を見とるんです」と、こちらをちらりと見るでもなく、まくし立てるように続けた。
「事故って聞きましたでしょう、佐伯さんとこの娘さんの話。佳奈ちゃんっていいましたっけね」返事も相槌すらも待たずに村木さんは話し続ける。
さもすれば「だからなんだよ」と叫んでしまいそうだった。
しかし何か言えば悪い事が起こるのではと思うほどに気味の悪い重圧がへそのあたりを押さえつけ、助手席のシートが不機嫌そうにギシリと鳴った。
それを返事と思ったのかどうか、村木さんは言葉を続ける。
「あの奥にね、小さな公園があるんですわ。ブランコがあったんですがちょっと前に取り外されちゃって、今ではすべり台しか残っとらんのですが」と指を指し「最初に見つけたのね、あたしなんですよ」と呟くように言った。
「事故って聞いたでしょう。でもね、あれは違うんですよ」
キッと小さな音を立てて車が止まった。窓の外にあの奇妙な案山子が立っている。古着を被せた子どものような風体の、二本足の小さな案山子だ。
「最初はまた変な遊びを思いついたのかと思ったんですわ」ギリギリと合皮が撚れる音が聞こえる。村木さんがハンドルを握り締めているのだ。
「佳奈ちゃんがね、公園の地べたに仰向けで寝っ転がって。いつも遊んでる他の女の子達は、その周りにお花とか、泥団子とか、思い思いに持ち寄って並べて飾っとるんです」その声に感情が感じ取れない。訥々とその光景を思い出しながら、絞り出すように語っているのだろう。
「でもね、佳奈ちゃん巾着袋を被されてね。首元の色がおかしかったんですよ。赤紫っていうんですか、どうも気味が悪くて聞いたんです。君たち、佳奈ちゃんはどうしたんだいってね」やめてくれという言葉がどうしても喉から出てこない。俺自身ギリギリと喉を締め上げられている気分だ。
「そしたらね、一人が言ったんです」村木さんがスっと小さく息を飲む音までが聞こえる。まるで町中がこの話に聞き入っているかのようだ。
「佳奈ちゃん、御召し上げられたんだよ」「御召し上げられたから、お送りしてるんだよ」「子どもらがそう言いながら、順番に佳奈ちゃんの周りに何か置いていくんですよ」少しずつ村木さんの語気は強くなっていく。
「子どもたちが言うにはね」「鬼さんが、佳奈ちゃん欲しいって言ったそうなんです」「佳奈ちゃんに巾着を被せろって」「それでね、みんなで左右から紐を引っ張れって」「何度も何度も」「えいや、えいや、とね」「何度も何度も何度も」「佳奈ちゃんね、見つかった時」「首の骨が折れてたそうなんですわ」「小さな女の子たった4人の力で」「首の骨が折れる程に」「何度も何度も何度も」「何度も何度も何度も何度も」
ぼたりとタバコの灰がズボンの上に落ちた。はっと我に返った俺は慌てて灰を払う。どうやら火種は落ちなかったようだ。もう根本近くまで燃え尽きているタバコを灰皿に捨てようと目をやると、村木さんはぼうっと俺の方を見やりながら「大丈夫ですか?」と訪ねて来た。
「えっ?ああ、火は落ちなかったみたいで……ええと」「それは良かった、灰は気にせんでください。どうせ戻ったら一通り掃除はするもんで」
そういうと、今までの事はまるで白昼夢だったかのように身体の重さが晴れていき、ゆっくりとまた車が動き出した。
「しかし、なんだか妙な話で。なんでしたっけ、おめしあげ?」
「ええ、御召し上げ」そういうと右手をハンドルから離し、あれをと指さした。いつの間にか駅に着いていたらしい。
村木さんの示す方には例の小さな案山子が三体並んでいた。
「あれね、児案山子といいまして。毎年米の収穫が済んだ時期に稲藁で新しいのをこさえまして」そういいながらなれた手際でパトカーはバスロータリーへと進入していく。
「そんで古い児案山子はまるっきし集めて、神社で焚き上げるんですわ。それを御召し上げって言いましてね」まるで観光客におらが町の見どころでも紹介しているかのような口調で「児案山子が立ってる場所、分かります?子どもがいつもいる場所にたててるんですよ。身代わりとしてね」しかしその内容は何とも湿っぽく厭らしいものだ。
「ここらへんは元々沼上村って呼ばれてた地域なんですけどね。もっと前はサンズイが無くって、召上村って呼ばれてたそうですよ」そう言うと、ギイっとサイドブレーキを引き上げる音が車内に響いた。
「着きましたよ刑事さん」そういうと、村木さんはさっさと運転席から降りてしまった。あっけにとられてしばらく無様に固まっていたが、ようやくして殆ど吸えなかったタバコのフィルターを灰皿にねじ込み、助手席から這い出すようにして降りる。
「ただの田舎の郷土話なんですがね」パトカーのルーフに片肘を付きながら、村上さんはいつの間にか手にしたタバコを燻らせて続けた。
「たまに、ごくごくたまにですが、この辺では同じようなことがあるんです。10歳前後の子が行方不明になったり、嫌ぁな事故で亡くなったり」二口三口ゆっくりと吸い込むと、まだ長く残っているそれを携帯灰皿で押し消しながら「たまに気付くんですかね、ただの案山子だっていうのに」と誰もいない場所へ投げ捨てるように言って。
「真梨恵ちゃんは本当に優しい良い子ですから、自分の子どもを傷付けたりなんか絶対にしませんよ」
最後にしっかりと、俺の目を見ながらそう言うとパトカーに乗り込みさっさと行ってしまった。
誰もいない寂しいホームで電車を待ちながら、俺の頭の中ではただただ気味の悪い言葉がグルグルと回っていた。
「隠さなければ」そうだ。てっきり「遺体を隠さなければ」という意味だと思っていたが、真梨恵が紗理奈を押入れに「隠した」のは、まだ彼女が生きている頃だった。それなら真梨恵は「誰から」隠したかったんだ?
ああ、一体俺は何をバカな事をウジウジと考えているんだ!
もう用事は全部済んだんだ。晴子からの調書は取った。
彼女からはできる限り引き出したが碌な事は聞けなかったさ。
どうせこんなもの誰もハナから期待しちゃいない。棒だか箸だかどこかにかかれば御の字の当てずっぽうだ。俺は十分にいや十二分に仕事はした。
ワケの分からない田舎の怪談話に付き合わされて、どうせでっち上げの嫌がらせだ。県警の刑事がデカいツラひっさげてやってきたから、嫌な話の一つでも聞かせて追い返そうってハラだったんだろう。ああ、見事に狙いは当たったよコンチクショウが。
いい加減腹立たしくなってきた俺は思わず一声叫んでスッキリしてやろうかと思った所だったが、タイミングが良いのか悪いのか、電車がホームへのんびりとやって来た。
さっさとこのチンケな田舎町から遠ざかりたいと、自分以外誰も居ないのに駆け込む勢いで車内へ向かい、大げさなぐらいどしんと席に腰を下ろした。
あばよジメジメしたクソ田舎。じゃあな陰気なクソ駐在。もう二度と来ないさこんな町。名物の一つもない。うまいかどうかもわからない米ばっかりがよく採れる町……
ぷしゅうばたんとドアが騒がしく締まる音を聞いた瞬間に、俺は本日一番の最悪な事態に思い当たることになった。
ああ、ああ、酒屋に寄って酒とツマミを買うつもりだったんだ。俺は。
そんな嘆きは誰も聞き届けてくれず、このジメジメとクソったれた町に砂をかけるように、電車はノロノロと走り出すのであった。
―釜が破れて行かれない 了
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