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「Obsessive-compulsive disorder」

強迫観念(本人が望まない場合ですら繰り返し頭の中に生じる考え、イメージ、衝動)

MSDマニュアル家庭版より引用


 当方、気が付けば強迫症になっていた。もう十年以上経つだろうか、いわゆる「不潔恐怖」と呼ばれる症状です。

 

 頭に浮かぶ「強迫観念」が不安や恐怖を心に植え付けて、それらから逃れるために、対処行動をとる。強迫観念が基となる対処行動を「強迫行為」と呼ぶ。例えば”穢れた”と感じた場合、手を洗ったり、シャワーを浴びたり、衣服の場合は洗濯したりする。症状の傾向として、強迫行為をすればするほど対象への不安が強固となり、それ以外(それ以下)の事象にも不安が生じるようになる。そして、また強迫行為をする。それは「したい」というよりも、「しなければならない」といった感覚が強い。

 本当は、気持ちとしての本当は、こんなことやりたくない。何度も手を洗うのは面倒くさいし、アルコール除菌は手が荒れるし、なによりも時間が大きく損なわれる。一時は中々に大変で、会社の床に落ちたボールペンが拾えなかったり(床が汚れているイメージ)、そのボールペンを使うことが苦しかったり(床の汚れがボールペンに付着したイメージ)、「このまま仕事出来へんようなるんかな....…」なんて他人事のように緩やかな絶望に包まれていた。


 当初はどうしようもなく、知人の勧めで心療内科に通っていた。「とりあえず」で処方された薬を飲み続けたものの、大して効果は見られなかった。寧ろ、感覚としては身体がしんどくなっていた。何度か薬を調整してもらったけれど、ただただ身体が重くなるだけだった。(個人の感想です)

 ある日、強迫観念が辛くて、徐々に希死念慮が湧き出てきた頃合いのこと。診察の際に「調子はどうですか?」と聞かれたため、「死にたいです」と答えたら、「そんなこと!!言ってはいけません!!!」とこちらの心臓が止まりそうなほどの大声で、怒鳴られた。「へっ?」...…呆然とするしかなかった。以前から何となく、クリニック全体の雰囲気に違和感を抱いていたのだけれど、それが確信へと変わった瞬間だった。

 その日を最後に、わたしは通院を終了した。これといった変化が見られず、ただ副作用だけが続くばかりの服薬も、自分の意思で断ち切った。離脱症状で数日間動けなくなった(オススメしません)。その後も別の心療内科を転々としたのだけれど、そのどれもが無意味のように感じられた。先生や看護師、皆さんとても優しかった。もう薬は飲みたくなかったので、話しだけを聞いてほしかった。いざカウンセリングを受けるものの、自分のなかで空虚さばかりが募っていく。もう、話すことにも疲れてしまった。


 やがて、心療内科にはいかなくなった。カウンセリングの中で感じた空虚の正体は、自分と相手との間に生じる「心の距離」だったのかもしれない。わたしは、自分をよく知る人に話しを聞いてもらいたかった。わたしの人間性をよく知らない人に、相手の人間性をよく知らない人間に、渦巻く絶望を一生懸命に話す様が、なんだかとっても空しかったのだ。だから、もうやめた。「いきたくない」、自分の心が涙ながらに叫んでいた。

 わたしはとても恵まれていた。思い切って身近な人たちに話してみた。親身になって聞いてくれる人、その後もサポートをしてくれる人、「心が重くなってしまうから、これ以上話は聞けない」とちゃんと言ってくれる人。色んな優しさの形を受け取った。そして、なんとか仕事も続けられている。それから約十年の月日が流れ、紆余曲折を経て幾らか軽くなったものの、現在も症状は残留している。

 最近は随分と落ち着いていたのだけれど、先日あるトリガー(恐怖対象)が偶発的に接触して、自分のなかで小規模のパニックが起きた。十年前の自分なら卒倒していたような絶望が、パニック程度で収まっていることに感動した部分はあるけれど。やっぱり、強度がある不安は中々に苦しいものですね。優しい知人に話しを聞いてもらって、多少は落ち着きを取り戻した部分はあるけれど、依然として心のなかには不安が居座り続けている。パニックになる自分も、不安に振り回されてばかりの自分も、時間と精神が奪われるばかりの強迫行為も、そのすべてが本当に悲しくて嫌になるよ。


・曝露 → ”積極的に”苦手なもの(恐怖対象)と対峙する

・反応妨害 → 不安になるが、強迫行為(不安解消行動)を行わない

個人的要約

 曝露反応妨害法というものがある。「苦手」に自分自身を曝して、発生した不安はそのままにする。強迫行為を行わないことで、時間経過と共に不安感は徐々に減少する。これを何度も繰り返す。不安の度合いが低くなる。繰り返す内に”ある程度”平気になる。ざっくり言うとこんな感じ。薬物療法のみならず、行動療法に積極的に取り組まなければ、強迫症を克服するのは難しいとのこと。そして、強迫症の場合、症状の度合いによっては”曝露反応妨害法のみ”で強迫観念に立ち向かうことが可能になる。薬物療法は不安感をやわらげてくれるけど、結局は行動あるのみということか。現在のわたしは薬を飲んでいないから、相応の苦痛が伴う。これまで何度も挑戦して、何度も何度も挫折している。

 人は、不安になるからこそ行動することができる。不安に駆られるからこそ、破滅のない未来を歩むことができる。しかし、何かに対する「恐怖」が基となっている不安、それを解消する為に行動することによって、その不安がより一層強固になる場合がある。曝露反応妨害法は強迫行為をしないこと、つまり「”行動しない”という”行動”」になる訳です。これがいかんせん難しくて、不安に押しつぶされてばかりの幾数年。それでも、発症時に比べれば随分と生きやすくなった。自分を褒めてあげたい気持ちと、もっと自由になりたい気持ち。二つの翼で心の中に蔓延る不安を、包み込むことができればいいのに。


 先日の凄まじい恐怖体験があり、人生に惨敗した気持ちになった。随分と快復した気持ちでいたけれど、わたしはまだまだこんなにも、不安に心を支配されている。そういえば最近、曝露反応妨害法、一生懸命になれていなかったなぁ。自分に優しくすることはとっても大事なことだけど、甘やかし過ぎると駄目になってしまうわたしだから、いよいよ今年は本格的に、不安を受け容れる覚悟を握り締めたい。恐ろしいものはたくさんあるけれど、きっとそれも脳の思い込みに過ぎなかった。いついかなる時でも選択を迫られる人生、「”行動しない”という”行動”」を手に取りながら、再び自由を取り戻したい。強迫症を惨殺する。苦しくても、頑張るから。



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