見出し画像

水道検針の仕事が向いてなさすぎて、逃げ続けてたら出版業界にたどりついた話


僕はいま出版社で編集の仕事をしていますが、これまで「編集者になりたい」と思ったことは一度もありません


逃げて、逃げて、逃げ続けて、気がついたら編集の仕事をしていたのです。

おそらく多くの編集者の方は望んで編集の仕事に就いたと思いますが、僕の場合は「逃げの一手」が編集でした。

正直、キャリアとか輝かしい経歴などとは無縁の人生です。ぼっろぼろでぐっだぐだで、それでも編集の仕事が楽しいからなんとか生きていける。


なぜいま、出版社で編集の仕事をしているのか、そもそも編集の仕事とどうやって出合ったのか、そんなことを書いていきたいと思います。

※気がついたら7,000文字を超えていたので、ぜひ気長に読んでもらえると嬉しいです。



いやいや就職した先は縁もゆかりもない水道検針の会社


大学在学中、僕は社会人になりたいとは1ミリも思わなかった。本当に働きたくなかったし、何にもなりたくなかった。

でも当時実家に住んでいた僕は、家賃を親に渡すことで最低限の責任を全うしなければいけなかった。そうしなければ、家から追い出されてしまう。

家賃を親に渡す。
そのためだけにいやいや就職した先は、実家から徒歩10分の場所にある水道検針の会社だった。

この会社を選んだ理由は、次の3つ。

  • 家から近い

  • 特に専門知識やスキルがなくても普通自動車免許さえあればよい

  • 水道局の下請けだから、収入も雇用も安定してる

たったこれだけの理由で決めた就職先のため、当然思い入れなんてものはない。


就職したものの、とにかく働くのがいやだった。頭の中は「働きたくない」で埋め尽くされていた。

夜、布団に入るたび「あぁ、明日目が覚めたら地球が滅びてないかな」と祈っていた。

それだけではなく、寝られないので、いろんな現実逃避の方法を試した。
当時はまだ謎設定でしかなかった2.5次元アイドルのラジオを縋りつくように聞いたり、いわゆる「日常系」とよばれるコンテンツにハマったのもこのころだ。
漫画やアニメの住人になって、現実世界が全部ウソならいいのにと思っていた。



そして、そんな願いが叶うことはなかった。

朝、目が覚めるたび、いつも通りの風景、いつも通りの自分の姿に心底嫌気が差していた。


水道検針の仕事は全く楽しくない


水道検針の仕事は巡回ルートが決められていて、バイクに乗り、家を一軒ずつ訪問し、メーターを確認し、料金を投函する。仕事の内容はこれだけだ。毎日同じことの繰り返しだった。


たまに違う作業が発生することもあったが、それはただ単に負担が増えるだけで、全く気晴らしにはならなかった。

水道料金が未払いの人がたまにいる。
そういった家は水道の使用を停止するために閉栓作業をした。
で、閉栓するとだいたい払う。

バイクの運転中に水道局から電話がかかってきて、「先ほど閉栓した〇〇さんのお宅、料金が支払われたので開栓しに行ってください」と連絡を受け取ることも多かった。


その度に、こう思った。


ざけんな!!
なんだこの二度手間!!


「料金が支払われていないので、閉めろ」と言われ、閉める。
「料金が支払われたので、すぐ開けにいけ」と言われ、開ける。

このとき、「現場に出ないで指示だけするくせに、感謝ができない人間」にはなりたくないなと思った。同時に、この仕事をしていることが虚しく思えてきた。

水道検針のしんどいところはまだまだある


水道検針の仕事は、雨の日でも、雪の日でも、雷の日でも、バイクで家を回らなければいけない。
僕は何度も死を覚悟した。

大雨の日は路面がつるつる滑るから特に危険だ。土砂降りの雨に打たれ、視界が悪く全身ぐしょぐしょのなか、マンホールの上を走ってしまうともうヤバい。

ハンドルの自由が奪われ、もう少しで転倒しそうになったことが何度もあった。

それでも、「雨だから今日は…」なんて言えない。自分の担当エリアをほかの人が代わりにやってくれることはない。自分でやるしかない。


会社から支給されたバイクが古いからなのか、走っている途中でエンジンがプツンと切れてしまい、すぐ後ろからくる大型トラックに引かれそうになったこともあった


給料は悪くなかったのでその一点でなんとか踏ん張っていたが、すでに3年が経ち一人暮らしに必要なお金は貯まっていた。僕は水道検針の仕事を辞めた。


まず、やりたくないことを明確にした


次の職場を考えるとき、仕事には以下の4つの条件を求めた。


①天候に左右されないこと
②なるべく身体を動かさないこと
③世の中とのつながりを実感できること
④できるだけコミュニケーションをとらないでいいこと


つまり、やりたくないことを明確にしたのだ。水道検針の仕事を経験したことで、やりたくないことがそれはもう明確になった。

やりたくないことを潰していけば、それは結果的に自分に適正のある仕事なのではないか。
そう思い、これらの条件を踏まえながら転職先を探した。当然、対象の仕事は限られた。

多くがシステムエンジニアやプログラミング、映像クリエイター系の仕事だったが、僕は何一つスキルがないため、そちらに進むことはできなかった。

それに、あまり気乗りがしなかった。
当時は本当に「人と関わりたくない」と思っていたので、職場の人数が少ないところ、上下関係が厳しくないところ、なんか緩そうな職場を探すことに躍起になっていた。

そんな中、唯一ヒットしたのが神田にある編集プロダクション(以降、編プロ)だった。

その編プロの募集要項には「未経験者大歓迎!」と書いてある。僕はこの言葉をすぐに信じた。そして職場の人数は4名らしい。ここならコミュ障の自分でもなんとかやっていけるかもと思い、応募してみた。すぐに面接日時が決定した。

ちなみにこの編プロは、ポプラ社という出版社で働いていた編集者が2人で立ち上げた会社だ。

当時の僕は、ポプラ社がどういう出版社なのかもわからなかった。
それだけでなく、出版業界のことも、編集のことも、本のことも、何一つわからなかった
それでも、やりたくないことの条件はクリアしていたので、未知すぎるけどここで働いてみたいと思った。


面接当日をむかえた。
面接では、履歴書もそこそこに、いきなり具体的な本の話になった。

これまで読んだなかで、一番印象に残っている本はなんですか?


この質問で、「出版業界は本が共通言語なんだな」と思った。
水道検針のときとは全く違う、個人を理解しようとするこの質問に武者震いした。


筒井康隆の『最後の喫煙者』です


そう答えた。
正直、それまであまり本は読んでいなかったので、いちばん最後に読んだ本のタイトルを答えただけだ。きっとこの質問に明確な答えはないと思う。

そう思っていたら、「おぉ!筒井康隆いいよね!俺も『旅のラゴス』読んだよ!」と返事があり、「お?これは正解引いたか?」と思う一方、「いやこっちが知らないタイトルで被せてくんなし!!」とも思った。ここで働くには、本のことを知らないと本当にマズいと理解した。
※今は『旅のラゴス』を読んでいる。

それから、筆記試験を受けた。
問題には「今年のベストセラーを10冊答えよ」と書いてあり、本当になんにも分からなかったからとりあえず知ってる本のタイトルを書いた。

実家に置いてあった『バカの壁』とか、さくらももこの『もものかんづめ』とか、ベストセラーだけど絶対今年ではないよなと思うような本ばかり書いた。ひどいありさまだった。

唯一の救いとしては、漢字の読み書きの問題もあったこと。漢字は少しだけ得意なので、ここで挽回することができた。

一通り面接試験が終わった。

2日後には結果が届いた。




結果、内定をもらった



嬉しい反面、「よくこんな何もわかってないやつに内定を出したな」とも思った。

内定後の面談で採用理由を聞いてみたら、

「ほかの出版社とかで経験のある人だとすでにイロがついているから、なにも知らない市川くんを選んだんだよ」
「それに、ベストセラーの回答はひどかったけど、漢字の読み書きは市川くんが一番よかったからね」

という答えが返ってきた。
漢字が得意でよかった。ナイス自分。

今思えば、これはとてもありがたいことだ。
編プロも出版社も、基本的には経験者か新卒を募集している。そんななか、中途で未経験の自分をとってくれた

この編プロが僕の人生を大きく変えてくれた。
ここから編集者としての人生が始まったのだ。

生まれてはじめて仕事に前向きになれたあの日


いまでも入社一日目のことを覚えている。

まずは仕事に慣れてもらうために、会社にある本を読んでと言われた。

戸惑った。
水道検針の仕事をしていたときは仕事=とにかく動くことだったので、「本を読むこと」と「仕事」が結びつかなかったのだ。

そんな戸惑いをよそに上司たちは自分の仕事に取り掛かり始めたので、言われるがまま会社の本を読むことにした。

会社の本棚には、以下のようなラインナップがあった。

  • 子供向けの囲碁や将棋の本

  • サッカーのドリブルの本

  • 東大卒の人が書いた麻雀の本

  • 税金の取り扱い方を書いた本

  • 相続手続きの本

  • ガンプラの本

  • 歴史の本

これまでに一度も読んだことがない本がぎっしりと並んでいた。どれもここの編プロから生まれた本だ。

いきなり子供向けの本を読むのもどうかと思い、税金の本を手に取った。
ただ、自分に知識がないため何が書いてあるのかさっぱりわからなかった。それでも、フルカラーに加えてやわらかいイラストが各ページに入っていたため、気がついたら没入していた。


そして、ふと、読んでいる途中に思った。


え、これでお給料もらっていいの…?


こんな仕事が世の中にあるのか。
死にそうな苦労をしていたあの水道検針の時間はなんだったんだろう。

衝撃だった。

同時に、がんばろうと思った。
がんばって、この仕事を続けられるようになろう。そのために、ちゃんと成長しよう。
生まれてはじめて、仕事に前向きな考えを持てた瞬間だった。

編集のイロハを教えてくれた編プロ



この編プロでは、一から編集のイロハを教えてもらった。

原稿整理のしかた、校正のしかた、赤字合わせのやり方、デザイナーへの連絡方法、本を読みやすくするためのポイントなど、本作りの基礎はすべてこの編プロで教えてもらった。


編プロのスタッフは計5人。

そのうちの2人は上述したポプラ社出身の歴戦の編集者。どちらも50代の男性で、長谷川さんと三輪さんという。
その下に阿曽さんという30代中盤の男性編集者がいる。この人はもともと別のところで編集をしていたので、すでに1人で仕事をこなしていた。
もう1人、20代の女性編集者がいたのだが、この人は体調不良で仕事を休むことが多く、僕が入った数ヵ月後には辞めてしまった。

つまり、僕ひとりだけが新米で、ほかの3人はプロの編集者として各々仕事をしてるということ。

自分〉〉〉〉〉〉越えられない壁〉〉〉〉〉
阿曽さん〉〉三輪さん・長谷川さん

という状態。

この3人からは本当に多くのことを学ばせてもらった。編集の実務的なことだけではなく、「親孝行はできるうちにしといたほうがいい」とか「神保町のカレーはマジでおすすめできるよ」など、人生の先輩としていろんなことを教えてもらった。

でも、心がぽっきり折れる音が聞こえた


月日が経ち、年度改定版など含め年に10冊近く編集の経験を積むことができた。

この時点で、ある程度編集の実務経験は身についていた。

しかし、コミュニケーションに関しては全くだめだった。さすがに職場の人とはそれなりに話せるようになったが、一歩会社の外に出たとたん、僕のコミュニケーションはガタガタと音を立てて崩れる日々だった。

水道検針の仕事を辞めてから転職先を探す際の条件の1つに、「できるだけコミュニケーションをとらないでいいこと」と書いたが、これは完全なる間違いだった。
それに気づいたのは、編プロに入社してしばらく経ってからのことだった。


編集の仕事は、多くの人とかかわる


入る前のイメージは、「かかわる人って著者くらいでしょ?」と思っていたが、それはただの幻想だった。

それに、ただ単にかかわる人が多いだけではなく、「人」を理解していないと務まらない。

著者もイラストレーターもデザイナーも校正者も、全員人間だ
当然、感情がある。

ぼくはそのことにまだ気がついていなかった。



編プロに入社してから2年目のこと。
社会保険・労働保険の手続きを網羅した本をゼロから作ることになり、僕が主導で進めていくことになった。

企画構成案の検討、著者候補のピックアップ、著者への連絡、どのような原稿を書いてほしいか、ページ数はどれくらいか、印税はいくらか、スケジュールはどのような流れか…。
とにかく考えることは山ほどあった。

さて、主導で進めていた社会保険・労働保険の手続き本だが、僕はこのプロジェクトで心が折れた


「人」を理解していない未熟なコミュニケーションにより、著者をイライラさせてしまったのだ。

著者は本業の社会保険労務士としての仕事があり、家庭があり、これまでの生活がある上で執筆をしてくれている。

そのことをわかっていない自分は、スケジュールに焦るあまり、「いま原稿どの辺まで進んでますか?」「いつごろ原稿もらえそうですか?」と原稿しか見えていなかった。
その原稿を書いてくれる著者のことを軽率に扱ってしまったのだ


編集者は、著者に信頼されていなければならない。信頼貯金がゼロの人のために頑張ろうと思う人はいない。そんな中「原稿が〜!」「スケジュールが〜!」などと言っても、「なんであなたの都合で私が動かないといけないの?」となるだけだ。


僕の未熟なコミュニケーションにより著者は次第にヒステリックになっていき、そのうちパワハラまがいの強い言葉を浴びせてくるようになった。平日・休日、時間を問わず個人の携帯宛にかかってくる電話に僕は恐怖を覚えるようになった。

そしてある日、心がぽっきりと折れる音が聞こえた
これ以上は無理だと思った。


なんとか本は完成したが、僕は疲弊しきっていた。もうこの仕事を続ける気力は残っていなかった。

仕事は全く楽しくなかったが…


長谷川さんに「辞めさせてください」と伝えたところ、とても悲しそうな顔をしていた。

「市川くんはこの仕事楽しくなかった?」と聞かれたものの、当時の自分はとても仕事が楽しいとは思えなかった。

そう伝えたところ、長谷川さんは

市川くんにもこの仕事の楽しさを経験してほしかったな。俺はそれができなかったことが悔しいよ

とつぶやいた。

僕はこのとき、

あぁ、自分はこの人の期待に応えることができなかったんだ。こんなにも面倒を見てくれたのに、結局何も返すことができなかったんだ

と、強い無力感と虚しさでいっぱいになっていた。

ただ、同時に、「本当に仕事が楽しいと思える世界線があるなら、それを経験してみたい」とも思った。

編プロの皆さんはいい人たちだったが、仕事はとても楽しいとは思えなかった。

でも、これまで30年近く編集の仕事をしてきた人が「仕事は楽しい」と言っている。
その人から見て、どうやら僕はもう少しで「仕事が楽しい」と思える段階にまできているらしい。

幸いなことに、ぼくは編集の仕事がいやになったわけではなかった。

楽しいとは思えなくても、前より充実している感覚はあった。
編プロの仕事を通して、ずいぶん前を向いて生きられるようにもなった。

たぶん、自分の人生を好転させるカギは「編集」にある
そう思うようになったのはこのころだ。









もしかしたら、出版社なら、編プロでは見えなかった景色が見えるかもしれない。






ならば、次は出版社で働こう。
そう決めた。





……。








そして、今、僕は出版社の編集者として働いています。もうそろそろ2年になります。



仕事が楽しいです。




今思うのは、水道検針の地獄のような日々も、編プロでの楽しめなかった毎日も、全部が今の自分につながっているということ。


苦しくて、苦しくて、すぐにでも手放したかった感情の数々も、今の自分を支える土台になっている。


逃げて、逃げて、どうにかたどり着いた先にあった編集者という仕事。





僕はこの仕事が大好きです。
楽しいです。
今なら、そう言えます。

著者とのやり取りも、イラストレーターへのイラストの発注も、営業との本の売り方に関する打ち合わせも、そのすべてが自分にとって愛おしい時間です。

もっと仕事をしたいし、もっと多くの人と本を作りたい。

そしていつかは、当時編プロでお世話になった人たちに「この本編集したの、ぼくなんですよ!」と言って、「えーっ!そうなの!?」「やるじゃん市川くん!」と驚かれるようなベストセラーを世に出したい。

今はまだまだ道半ばです。


いつかはそうなれるよう、いま目の前の仕事に全力で向き合います。



きっとその先に、理想の自分が待っていると信じて。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?