【飯田線各駅訪問】54 駄科駅
長閑な駅にも悲惨な過去が
飯田市の駄科は、国道も通り店が立ち並ぶ賑やかな地区だ。そんな街の中心部のやや外れ、天竜川にほど近い入り組んだ住宅地を歩き進み、ようやくこの駅を見つけた。線路のさらに向こう側には巨大な工場も広がっている。下伊那地区の特産品の「凍豆腐」などで知られる、旭松食品だ。
そんな長閑な街並みの中に存在するこの駅にも、過去には悲惨な歴史を歩んでいることを忘れてはならない。かつては大柄な木造駅舎に交換線も備えた駅員配置駅だったが、信号機設備の自動化(CTC導入)により無人化。そのCTC設備も僅か5年後には交換線撤去により廃止され、現在では2番ホームが草に埋もれながらわずかに原型をとどめているに過ぎない。そして1998年、かつての木造駅舎は「放火」という無惨な形で崩れ去った。この放火事件をきっかけに近隣の時又駅をはじめとして山吹・上片桐・伊那本郷といった多くの木造駅舎が解体され、当駅も含めそれぞれ現在のような簡易的なものへと切り替わってしまった。現在でこそ真新しい駅舎にトイレも備えた美しい当駅であっても、その背後には様々な過去があることを忘れてはならない。
そして、この駄科駅から徒歩数分のところの天竜川を跨ぐ「南原橋」は、長野県有数の心霊スポットとしても知られている。自殺者が絶えないにも関わらず柵などは設置されておらず、この橋から下の川を覗き込む霊の目撃情報も絶えないという…。さらにはこの橋のやや下流では天竜舟下りの船頭が流される事故も発生しており、どうにも正常だとは言えなさそうである。このような不幸な目にはもう他のどの地も遭ってはならないと願いながら、この駅を後にしたのだった…。
2024.04
再訪(到達ならず)日記
まず初めに、…これは私の、当駅への再訪がかなわなかった駅訪問の日記である。
この日私は朝07:50に家を出発。川路駅への到達を目指して、徒歩で向かった。
自宅から鼎地区、さらに松尾常盤台の抜け道を通る。常盤台の見晴らしの良いところで眺めていると、伊那八幡駅を列車が発車していくところが見えた。出発から1時間ほどで毛賀地区へ到達。猛暑の中歩いて疲れたが、結構遠くにある川路駅へ行くには時間的制約が厳しく、休んでいる暇はないので、そのまま駄科駅経由で川路に向かおうとしたのである。
しかし、事件はこの後起きる。毛賀駅付近の五角形の鉄道用信号機、すなわち「特殊発光信号機」が点灯しているのである。当初、私はこの五角形の信号機がクルクル回るように点灯しているのを見て、なんじゃこりゃと思った。
だが、そのまま駄科駅の方へ歩いて行くと、毛賀〜駄科間にある橋梁の上に列車が停車しているではないか! これは、事故が起きている! よく見ると踏切が鳴りっぱなしで、そこにクルマが突っ込んでいる。私は…いや、私の足が、無意識のうちにその踏切へと歩いていったのである…。
行ってみると、地域のオバァサンが2人で話しており、その向こうに事故ってしまったオネェサンが泣きながら列車の運転手と話していた。警察がどうだの、保証がどうだの、いろいろと話している彼女をみて、私はなんとかこの雰囲気を明るくしないといけない、…という無駄な正義感に燃え、あまりにも余計すぎるひとことを、発してしまっていた
「電車が止まってるんで、これで撮影ができます…悪いことばっかじゃないですよ」
一瞬、みんなが沈黙した。そして運転手が、「今は撮影はしないで…」と、沈黙を打ち破るように言った。
私は一瞬、意味が分からなかった。
そして、
ここで撮影することが事故してしまった彼女に対する挑発行為であること、本来禁止されている線路内撮影を堂々とJR職員の前でやってしまったこと、みんなが辛い雰囲気のなかひとりだけ場違いな人がいること、…全てが同時にドスっと私に降りかかってきた。
気がついた時には、その場から離れ、草だらけの小道を歩いていた。トゲトゲした怪しい草が足にまとわりつくのも気にしないまま、ただただ歩いた。そして、その先にある先ほどのとは別の踏切で、なかなか列車が来ないと困っている女性に話しかけた。
「先ほど向こうにある踏切で事故があって列車が進めない状況なんですけど、踏切だけはしまったままなんですよね。」女性はこの踏切の先にある会社(おそらく旭松食品?)に遅れそうだと話した。私は、このあとレッカー車が事故車を退けて運ぶまでまだ時間があること、警察がまだ来ておらず事情聴取の完了までまだ時間がかかることをその女性に話し、踏切は閉まったままだがおそらく通行しても問題ないと言った。そして遮断機をよけて踏切を通り抜け、その女性は会社へと行くことができた…。
その先の踏切でも、遮断機が降りたまま列車が来ず車の渋滞ができていた。私はその車の人にも、向こうで事故があって列車が動かないので迂回が必要であると説明した。やがて警備員の方がやってきたので“バトンタッチ”して、私はその場を離れた。
自分はこの先の駄科駅に行きたかったが、大きな踏切のせいで通行できなかった。最終目的地である川路駅へ行くために迂回し、天竜川の対岸(左岸)に渡って南方へ行くことにした。
全て無意識のうちにやっていた。そして、迂回路である南原橋を通ろうとしたとき、正気に戻った。
この南原橋は、飯田市では最高ランク、長野県でも有数の心霊スポットである。今までは近寄ることさえ怖かった、その橋である。
しかし私は、その橋へと歩き出した。そして、一歩、また一歩と、橋を渡っていった。
南原橋は、静かな場所だった。私はここで、先ほどの意味不明な“挑発発言”をしたことの馬鹿らしさに気がついた。私はまず、人として最低なことをした。そして、最近話題の「迷惑撮り鉄」の一員に自分がなったのだと、自らの愚かさに押しつぶされそうになった。
好きなものは? と尋ねられたら毎回決まって「鉄道です」と答えていた自分。鉄道ファンとして最悪なことをした自分。なんだか私の人生の拠り所が、スッと消えていったような気がした。そして天竜川に乗せられて運ばれる、少し冷たい空気をいっぱいに吸いこむと、それを吐き出すと同時に叫んだ。
「何やってんだ俺は!」
それはもうはたから見たら、警察に通報されるレベルであったに違いない。自殺の名所とさえ言われる橋の上で、何か大声で叫んでいる…
でも私は、本当にそれぐらいに思った。私の人生の拠り所から突き放され、もう終わったと思った。
しかし、天竜川は雄大だった。何も動じなかった。ただ流れていた。
今までここで自殺していった人たちは、飛び降りる前に、なぜ天竜川の雄大さに気が付かなかったのだろう、と思った。
これほどあちこちを歩き回っている私だが、人生で初めて、自宅から歩いて天竜川の“かわむこう”へやってきた。飯田市の下久堅地区である。
私は南方へ向かって歩き出した。澄んだ空気がおいしかった。青々と茂る木々が生き生きとしていた。そして、その隙間から見える天竜川が美しかった。
歩いていると、「熊出没注意!」という看板も目にした。「この先落石が多発しております」という看板も目にした。それでも、私はこの道を歩き続けた。
私があのような発言をしても、自然は優しかった。
私は一度、自然に溶け込みたくなった。
やがて、気持ちが落ち着いてきた気がした。そして、私が無意識におこなった、他の人々の誘導行動が、せめてもの償いとしてできたのだと、少し気持ちが軽くなった。
やがて天竜川の右岸に戻り、時又駅についた。街に帰ってきた。
だが、気持ちが軽くなったのと同時に、今まで歩き続けた疲労がいきなりのし掛かってきた。私はもう気力がなくなっていた。外を歩き回ってばかりの自分が、久しぶりに「家へ帰りたい」という気持ちになった。
時又駅と川路駅の撮影を済ませたが、帰路は線路からは離れた道を歩いていた。家への最短ルートを取ろうとしたのか、それとも鉄道とは一旦距離を取ろうと物理的に離れたのか、よく覚えていない。
竜丘から伊賀良へ抜ける“鈴岡公園通り”を登って行ったが、あまりにも疲労がのしかかり過ぎて歩く気力を半ば失った。でもこれは私が久しぶりに長距離歩いたせい、ということにして、家へと向かった。
育良町の北方公園に立ち寄り、人目もはばからず水を頭から浴びて飲みまくった。
今日のことが私にとってプラスとなったかマイナスとなったかは分からない。しかし、この経験をプラスの経験にできると良いなと、これからの駅訪問へ気持ちを新たに持ち直したのであった。
2024.08