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【抗がん剤】治療経過と今【家族の記録③】

今更だけれど、2021年がどんな年だったか思い返すと、もう訳のわからないままに時間が流れた一年だった。
とにもかくにも子どもたちを健やかに育てること。
夫の体調に注意して、感染症など起こさせないこと。
自分のことは二の次だけれど、わたしの身に何かが起きれば一家崩壊なので、無理をしすぎないこと。

治療は、ほぼ5ヶ月で終了した。
これは同じ治療をする人の中では、ずいぶん早いようだ。
その要因は主に2つ。

ひとつ目に、夫の血液データの回復がスムーズだったこと。
これは夫から聞いた話だけれど、入院するとまず血液などの検査を受ける。
その後、5日ほどかけて抗がん剤を点滴。
夫の場合はリツキシマブという抗がん剤も使用する必要があり、他の点滴とは別に1日かけて投与されていたらしい。
ちなみに、この抗がん剤を投与している期間はダルさもしんどく、味覚も落ちて食欲も低下してしまうということで、病院食が辛かったそう。
抗がん剤の点滴が終了すると、血液検査をまた行う。
免疫機構が攻撃を受けて弱っているためで、それらの数値が改善すれば一時帰宅できる。この回復におよそ1週間。

およそ1週間の一時帰宅を含めたこの流れが1クールで、これをおよそ8クール。およそ3週間ほど。
血液検査の結果が比較的夫は回復しやすかったので、この周期が大きく乱れなかったわけだ。

もうひとつは、新たな感染などを起こさなかったこと。
上記した通り血液検査の結果を確認しての帰宅にはなるけれど、それでも免疫が通常の状態とは言えないがん患者。
帰宅中にも、生ものを食べてはいけない、土いじりをしてはいけない、火の通っていない発酵食品を食べてはいけない、などの決まりがある。
子どもたちが一時帰宅した父と庭や公園に行きたがったが、一緒に土遊びはせず、泥や土のついた手で触れないことなど約束が増えた。
もし感染などを起こしてその治療が必要になれば、抗がん剤治療が後回しになってしまうので、これには本当に神経を使った。

結果として何も感染することなく、昨年末、自宅に帰ってきた。
そして3月。再検査にて腫瘍は落ち着いており、ひとまず寛解にはたどり着いた。

正直、彼のいない半年弱のことはあまり記憶にない。
とにかく自分が子どもたちに対して余裕を持つために、不要な「がんばり」は意識的にやめた。
例えば、夕飯の品数は気にしないとか、服にシワがついていてもOKとか。
掃除は日常の中で「ついでに」済ませて、わざわざ頑張らない。お風呂だってシャワーで大丈夫。

6Pチーズと、トマトと海苔巻きおにぎり。
そんな食事でも、子どもたちはニコニコ食べて、きちんと成長していた。
母としては保育園で1食はきちんとしたものをいただいているというのは、本当に心強かった。

それよりもたいへんだったのは、2週間おきに帰宅して1週間でまた離れ離れになる生活に対する子どもたちのケア。
夫の帰宅を心待ちにして、保育園から帰って夫がいると大はしゃぎする子どもたち。その一方で、一緒に遊びたくでも体力や衛生の問題でできない我慢もある。
夫の入院する日の朝は、先に保育園に送るために乗せた車の中で、ポロポロ泣きながら何度もタッチやハグを求めて離れられず、保育園でもしょんぼりしていた娘。

子どもたちの不安と、親が一人になった分子ども一人に大人が割ける時間も少なくなったので、それをどう補うかが問題だった。

彼の退院からもう4ヶ月。
子どもたちはあの日々のことはすっかり忘れて、彼の生え始めた髪の毛への関心も薄れてきた。
そんなふうに当たり前の生活が取り戻されて、子どもたちそれぞれの好奇心に没入している姿を見ると、親としては心底ほっとする。
あの生活、我慢が多かった時間が、子どもたちに大きすぎるストレスにはなっていないのなら。

まだこれからも定期的な通院・検査は必要。
だけど、いろいろままならない日々ではあるものの、日常を取り戻している我が家。
それでもいつまた、生きているかぎり想像もできないようなことが、わたしとわたしの家族に起きるともしれない。


むかしむかし、ある女性に言われたことがある。
「わたしは夫婦喧嘩はいっぱいしたけど、絶対に朝には持ち越さず、朝は笑顔で送り出した。それが今生の別れになるかもしれないから。もしもの時に喧嘩したままだったら嫌でしょう」

彼女はもうこの世にいない。
でも彼女の言葉は、わたしが覚えている。
わたしは彼女の言葉に背中を押してもらって、今日も家族と生きている。

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