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ずっと考えていることについて|小澤南穂子【ヒコウキグモ】

私は大学3年生の冬になるまで、ずっと、考えても考えてもわからなかったことがあります。そしてそのわからなかったことというのは、今では口癖のように心の中で何度も唱えられている。ただ、声に出すのがどうしてもおそろしくて、だからいつも心の中で何度かつぶやいて前を向きます。

「死にたい」

って言っちゃう人とか、

「頑張れない」

って言っちゃう人とか、

わかんないなーと、思ってました。

思えば、とてもとても近しい人がそんな状態になった中学3年生の冬から、「私はそうはならないぞ」と心に決めて距離を取ろうとしていたのかもしれない。だってみんな泣くし。だって私はいい子だし。奴と違って。

彼がその時適応障害だったというのは最近になって知った。ひどいことをたくさんしたし言ったと思う。決して意図的ではなく私は私の居場所を確保しようとしていただけだけど。

その頃私は順調に人生の線を引いていた。今日の後に明日が来ることに何の感情も持たなかった。幸せと無頓着と仲良くしていたような気がする。どうでもいいことの襲技に促される幸せってあると思う。変わらないことは退屈でも不安じゃなかった。絶対大丈夫という謎の自信もあった。

立たされたことがなかったのかもしれない。「死にたい」とか「頑張れない」という答えを導き出すほどの、窮地に。

その頃に戻れば、今知ってしまった「窮地」については全て忘れるのだから、また同じように、「死にたい」という言葉の非現実性だけを空耳半分で聞いて、奴のようにはなりたくない/なれない/なるわけがない、と思うだろう。


そのもう少し前に、週一で通っていた書道教室の友達が義足になった。彼と別れないといけなかった彼女のことを、私は忘れられない。彼の大好きなアイドルを揶揄う私に「てめえ喧嘩売ってんのか」とちょっとこわくて低い声で言うその細くて優しげな眼差しが、いつもと変わらなかったことも、私は忘れられない。2人はまだ中学生で、私は小学生だった。

(大学生になった私が中学生だった2人のことを勝手に妄想分析してみれば、)
彼女が頑張れたことと、彼が頑張れたこと、その方向が、違っていたというだけな気がしてくる。大人っぽい言い方は価値観の相違。で、やっぱり私は無頓着で幸せだった。そんな立場だった。週一の書道教室の友達だもんね。


わからないということは、「排除」ではないと思ったりする。

立ってるだけで精一杯とか、突然壁に向かって号泣し始めるとか、必ずその日の生死の是非を確認する交差点があるとか。

そんなちょっと困っちゃうほどに困ってる人のことを無理に「わかろう」としなくてもいいんじゃないかなと思う時があります。

だってその人の立っている窮地はそこに立たずして想像つくものじゃないもの。普通に無理だった、外から覗き込もうとするの、私は。

もちろん、知らないこととわからないことは違うことで、知らないと、無闇に傷つけたり傷ついたりするから、知らせておきたいし、知らせてほしい、と、私は、思っているんだ・・・!ほんとは。知らない間に傷つけてしまうことに、私は一番傷つくから。


駄菓子菓子けれどもね、わからないことに罪悪感感じることないって思うんですよ、やっぱ。わからないことに罪悪感を感じている時点で、罪悪感感じなくていくね?っていう。
わかんないからって切り捨てようとしなければ、わかんないからって放っておかなければ、わかんないって思う時点でその存在を認めている。むしろめちゃめちゃ考えてるじゃんよさあ。え、だよね?ちがうのかな?てかじゃんよさあってなに?

わかるわからないは一旦置いといて、わかってもわからなくてもその対象が存在していて、その人を抱きしめることはできなくても見守ることも少し手を繋いでみることも出来る。もちろん具体的に何をするかは、またそれぞれががんばれることによるのだけど。腕が長い人もいれば手が大きい人もいるから。

能天気ですかね、能天気ついでにもっと意味不明なことを口走ってみますと、

そういうの、キャパシティの問題じゃなくて、場所の問題だと思ったりします。相対的な小さい大きいできるできないじゃない。

窮地に立ってるかどうか。

あと、その窮地がどれだけその人を蝕むかどうか。そこの度合いの違い。

部屋の電気がつかなくなってもそこに住み続けられる人と、そこにはもう住めないから引っ越すという人の、違い。明るさなんかどうでもよければ、幸せに暮らせる。


わかりやすくなやんでないひとは幸せだと?

そういうモヤつきが起こるくらいに、この世の中の懐がまだまだ狭いんだろうな、偏ってるんだろうな、ということも、最近は思います。

だからまわりのみんなが泣くんだ。だからいい子でいたいんだ。だから我慢するんだ、できるだけ。


部屋の暗さに我慢できなくて引っ越す人が穴の空いた靴下を意外といつまでもそのまま履いちゃうところや、部屋の明かりがどうでもいい人の穴あき靴下をすぐ捨ててしまうところはフォーカスされなかったりする。そんなトリミングの嵐。相対評価対象に仕立て上げられて、勝手に「両者」にさせられて、抗争を引き起こさせられる。誰にかは定かじゃない。

世の中のせいにするのは簡単だと、何度も思い返す。

確実に変わろうともしてると、思う。声すら届かなかった時に比べれば。少なくとも私のいる場所にはいくらが届くようになった。今の願いは、よくなって欲しい。平和になって欲しい。平等であって欲しい。ということ。共生とか共存じゃなくて同じ人間なんだから生存でしょっ。というくらいに色々なことが当たり前になって欲しい。世も人も、私も。

追伸:ちなみに、最近の私の「死にたい」は、「え?あの人生きてる?と思われるくらい世界と人の記憶から逃れて家にずっと何もしないでいたい、どんなに生産的でない状態でも罪悪感を感じずにただ寝転がってたい、エンドレスで海外ドラマを見てても夜更かししても何も罪悪感を感じない屈強なレイジーネスが3日くらい欲しい」という意味の縮小版です。だったら休みたいって言いなさいよって感じですよね。その方が幾らか軽やかで穏やかじゃないのさ。夏になったら広島に行って、路面電車に乗って、フェリーに乗って宮島に行って、美味しいお好み焼きを食べたいです。そのことを考えて自転車漕いでるだけでニヤニヤする日々がサイコーに幸せだったりします。お好み村というなんとも素晴らしい村が、そこにはある。


芸劇eyes番外編 vol.3
「もしもし、こちら弱いい派─かそけき声を聴くために─」参加作品
『薬をもらいにいく薬(序章)』

日程
2021年 7月22日(木・祝)~7月25日(日)

会場
東京芸術劇場 シアターイースト

チケット一般発売
2021年 6月19日(土) 10:00~ 

公演詳細
https://www.geigeki.jp/performance/theater276/



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