「友達」≒寂しいと苦しいの堂々巡り|小澤南穂子
小澤南穂子です。
友達とか、人との距離感とかについて、自分の感覚の話をします。
寂しいか、苦しいかだったら、寂しいをえらぶ、という気持ちはどのくらい、普遍的な感覚なのでしょうか?
今までを振り返って、人と近づけば苦しくて、人を遠ざければ寂しくて、人と近づこうとしても遠ざかれば、なにより苦しかったな、みたいなことで、
寂しいと、苦しいだったら、自分は寂しいほうが楽だと感じる。俄然人とは一定の距離を置いて、寂しいでいられる位置を心地よく保ち、寂しいを選ぶ。
喧嘩なんかは絶対したくないし。
いとこが学校で友達ができなかったとき、彼はかぶりつくように図鑑を見ていたので、なんとなく、心配ではなかった。無理して人間と仲良くすることないと思った。居場所は多様に用意されている時代なような(?)
でも友達に、「ちょっとおしっこ行ってくるね」と報告するのが好きです。友達と、ガチャガチャで散財するのが楽しかったです。共通の話題で盛り上がったり、急に個人チャットに変な写真だけ送りつけられたりするのも好きです。
最近、『喧嘩するほど仲がいい』という諺が、やっと自分に浸透してきました。
喧嘩するほどわからせたくて、喧嘩するほど解決したくて、喧嘩するほど伝えたいのは、相手とのこれからがあると思っていることが前提だからで。けんかきらいだけど、そういうの当たり前にできる同士ってなんかずるいなと思う。
しらふで、喧嘩腰。苦しいが近い。
手放すつもりのない相手にふっかける、苛立ちのせいではない、覚悟ある喧嘩腰。さらに近づく。
離別のリスクをかけて手放さないために打って出る。的な。接近戦。
怒りを露わにするとか、文句を言うとか、
それだけでなくとも心のうちを明かしたり、憂いごとをつぶやくことが、対人だとものすごくハードルが高い。なんか申し訳ない。
喧嘩だなんて滅相もない。
ていうか正直ちょっとめんどくさい。
なのでわたしは寂しい組。
わかってくれと嘆くよりわからないねと距離を置く。方が楽。
友達は、「ちょっとおしっこ行ってくるね」と、「え、今おならしたよね?」が言えるのが最上級。それでいい。それすら憧れるほどにいない。まあ、別に元気で平気。たぶん。
ただ何かが通じなかった時、怒りを隠さず、うちに秘めず、我慢をせずに、「おーい!」と伝えられる相手というのも、貴重だと思う。それで続く相手というのは。
(怒ることにハードルのある人の場合)
礼儀で隠す感情を、なかったことにしなくてもいい相手も、良い友達といえるかもしれない。(片方が我慢することにならなければ。)
人と近くて苦しいのは、そうなる前の、礼儀で隠している最中な気もしてきた。
ただ、楽でいるために寂しさをくというのも捨てがたい。
の堂々巡りが、わたしの「友達」という言葉の正体のように思えています。
いいへんじ
佐藤佐吉演劇祭2024参加作品
『友達じゃない』
2024年3月20日(水)~3月24日(日)
北とぴあ ペガサスホール
ご予約
https://www.quartet-online.net/ticket/friends
公演詳細
https://ii-hen-ji.amebaownd.com/posts/50629967
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